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映画感想文 シン・エヴァンゲリオン完結編 Ⅱ エヴァの呪いに立ち向かっていった男の話

 こちらはタイトルが『シン・エヴァンゲリオン感想文』となっていますが、『シン・エヴァ』本編の話はしません。『シン・エヴァ』にちなんだ私の個人的な日記にあたる話をします。
 『シン・エヴァ』の感想文はこちらです↓

 読者の中には「そういう日記は自分のブログで書けよ」という人がいるでしょうが、これは私のブログです。どこからもお金をもらわず私が勝手に書いているブログなので、好きなように書かせてもらいます。

25年前、こうしてエヴァの呪いが始まった

 『シン・エヴァンゲリオン完結編』を観て何に驚いたかというと、あのテレビシリーズと旧劇場版と内容が一緒だった……ということだった。細かい話をすると「一緒だったけれど、一緒じゃなかった」……という禅問答的な話になるので、この話は後々掘り下げていくとしよう。

 まず、そもそもの話として、『エヴァンゲリオン』がどうして25年も続くコンテツンツになってしまったのか。
 それはテレビシリーズを完結させられなかったからだ。
 これは誰もが知る事実。
 『エヴァンゲリオン』はテレビシリーズの最終局面で作画も作劇も完全に崩壊してしまった。第24話『最後のシ者』で渚カヲルが登場し、エピソードの最後で殺してしまうという結末を迎えた後、残り2話でどうなる……どうやって完結するのだろう……。全てのアニメファンが「次の週」を心待ちにして待っていた。
 ところが、ここでアニメが完全崩壊し、よくわからないイメージと碇シンジの内省的な独白が延々続き、作画もラフ画だったり絵コンテの絵そのものが載せられたり、最後には台本が画面に映り……とそれはそれは混沌としたものだった。

 あの時、『エヴァンゲリオン』の現場で何が起きていたかというと、庵野秀明の鬱病が発症していた。庵野秀明は『エヴァンゲリオン』の制作に徹底的に根詰めていたので、その最終局面に来て「壊れた」のだった。
 監督の庵野秀明が壊れると、アニメも崩壊する。庵野秀明の精神状態そのものがアニメに載って、そのまま放送されてしまったのだ。
 完全崩壊した『エヴァンゲリオン』は当時のみならず、今においても前代未聞の「放送事故」だった。当時のアニメファンが何が起きたかわからず、コミュニティはパニックに陥った。
 どうにか平静を保ちたい人々は「あの崩壊したアニメにも意味はあるんじゃないか」と考え、知恵を巡らせて読み取ろうとした。そういう人達がいる一方で、ただただアニメを崩壊させたこと自体が許せないと憤慨し、庵野秀明に殺害予告を出す人々も現れた。
 当時はネット黎明期で、ネットは完全なる無法地帯だった。殺害予告をしても逮捕されることのない時代だった。当然ながらネットは安全地帯ではなく、そこから飛び出して、制作会社ガイナックスに直接の嫌がらせをする人達も現れてしまった。
(そろそろ時効なんで、「あの時庵野に殺害予告出したのは私でした」……って名乗り出る人は出てこないかな……と言ったらホイホイ出てくるだろうか。殺害予告しても逮捕されない時代で良かったね、当時の人々は。当時気軽に殺害予告をやっていた人は、その後も重荷として背負っていて欲しいんだ。それは軽いもんじゃないから)

 アニメコミュニティが大パニックに陥っている一方で、あの最終話だけで何が起きたのか、全てを察していた人が、一人だけいた。宮崎駿である。
 宮崎駿はあの崩壊して意味不明になった最終話だけを見て、すぐに何が起きたか察して、庵野秀明に電話し、ジブリに呼びつけた(ご存じの通り、宮崎駿と庵野秀明は師弟の関係である)。庵野秀明が鬱病になっていることを確かめた宮崎駿は、以降ジブリで預かって、治療を目的とした作品を作らせる。『エヴァンゲリオン』の後に作られた実写作品は、そういう事情によるものだった。
(この事情も知らなかったから、当時はなぜ急に実写映画なんて撮り始めたんだろう……と思っていた)

 宮崎駿は『エヴァンゲリオン』のテレビシリーズをまったく見ていなかったそうだが、最終話だけを見て、全てを察したのだった。このエピソードだけで「ああ、私たちとはステージが違うな」と思わせられる。しかも宮崎駿はリハビリのための道筋まで用意して、同じ作り手としての「情」を持って接していた。
 これが私たち素人に過ぎない、アニメファンにはできなかったことだ。そこまで見抜けなかった私たちは所詮は素人だったし、子供だったんだな……と。筋違いな「考察」で遊んでいたあの当時のことを思うと、恥ずかしくて仕方ない。そこを見抜けなかったから、『エヴァンゲリオン』がどういった作品なのか、本質がわからなかったんだ……と今なら言える。

 とにかくも『エヴァンゲリオン』のテレビシリーズを完結させることができなかった。これが「エヴァの呪い」としてえんえん作家としての庵野秀明を苦しめていくことになる。この「エヴァの呪い」は作り手たる庵野秀明や元ガイナックスの人々のみならず、私たちアニメコミュニティ全体を捉える呪いとして、延々続いていくことになる。

実はテレビシリーズと変わってなかったシン・エヴァ

 『シン・エヴァンゲリオン』を観終えて何が衝撃的だったかというと、テレビシリーズと旧劇場版に描かれていたことと一緒だった……ということだった。『エヴァンゲリオン』の結末がどうなるかは、かつてのテレビシリーズの時にすでに提唱済みだったし、映像イメージ的なものは旧劇場版の時に提唱済みだった。観ている間「あれ? そううことだったの?」と驚いた。要するに、テレビシリーズと旧劇場版で提唱していたものを、噛み砕いてアップデートさせたものが『シン・エヴァ』だった。

 同じだった……けどテレビシリーズも旧劇場版も作品としてお話として完成していなかった。旧作と『シン・エヴァ』の違いは何だったのか、というと、お話として完成していること……ある意味、違いはその一点でしかない。
 でもこうやって改めて『完結編』を観てみると、どうしてテレビシリーズや旧劇場が未完成だったのかがわかるような気がする。
 テレビシリーズの頃は私たち子供でも理解できるように、哲学の初歩的な説明や、個人が対象をどのように認識しているのか……といったそういうお話から入っていかなければならなかった。当時のアニメファンは「哲学」の「て」も理解していなかったし、庵野秀明が語りたかったような高度な思想を理解するだけの頭を持っていなかった。
 それを、どうにかこうにか、わかるように色んな哲学書に書かれている基本を伝えようとして、さらに物語としての展開も同時に作らねばならず……。と、色んなものを突っ込んでいるうちに収まらなくなり、作品として破綻したのだった。改めてテレビシリーズを考えると、伝えようという努力はしていたんだ。ただ私たちがあまりにも子供だったから、理解が追いつけていなかっただけだった。
 『エヴァンゲリオン』の結末は、テレビシリーズ時代から「こうしたい」というイメージはあったのだろう。しかしそれをどうやって2話で納めて、テーマとしてお話として完結に導けばいいのか、庵野秀明自身もわからなかった。悩んで悩み抜いて、その挙げ句、精神崩壊を迎えてしまった。その精神崩壊の過程も作品の上に載ってしまって、あのトンデモない表現が(偶発的に)生まれてしまった。

 後の時代である今考えると、テレビシリーズ残り2話で『シン・エヴァ』で語ったようなエピソードを詰め込むのは無理。後に作られた旧劇場版でも無理。……こういうのは、後になったから言えることだけど。
 毎回無理なものをどうにかしよう……と考えて考えすぎた結果、庵野は壊れていた。そういうことだったのか……と今ならわかる。

 『シン・エヴァ』の最終局面は、作劇的なリアリティが次第に剥がれ落ちていき、エヴァ同士が戦っている場面が特撮セットになってしまっていた。要するに「エヴァの世界は所詮は2次元に過ぎない」という楽屋オチ的な説明だったが、もしかするとこのオチはテレビシリーズの頃から構想していたものだったかも知れない。人類補完計画後、アニメの虚構としての側面が次第に露わになっていき、最終的にイマジナリーの中だけではなく、リアリティの中で世界を再生させていく……そういう構想があったのかも知れない。
 そこまで考えると、あの破綻したと思っていたテレビシリーズの、ラフな絵やコンテ画が挿入された映像は、「放送事故の結果」ではなく、本当にあんなふうに作るつもりだったのかも知れない。しかし、庵野秀明の精神崩壊があの時起きていたから、構想や思考がなにもかもバラバラに壊れた状態で作品に載ってしまったのだった。

 『シン・エヴァ』ではあのラフ画やコンテ画の部分がアップデートされて「特撮シーン」に変換されていた。どんな意図があったにせよ、ラフ画やコンテ画を見せられても、普通の人にはただの「未完成品」にしか映らない。あの世界が「実は虚構でした」……と見せようと思ったら、少し工夫してバトルシーンを特撮セットで見せた方が、表現としても相応しい。そういうことに行き着いたのが『シン・エヴァ』だった。
 こうした構想……というか「見せ方」や「語り方」がテレビシリーズの『エヴァンゲリオン』の時には行き着くことができなかった。虚構が崩壊し、現実が立ち上がってくる――という物語と映像を、物語の中でどのように表現すれば成立するのか。その方法に25年間探り続けていたように思える。
 要するに、『エヴァンゲリオン』のような構想を映像にするためには、それこそ20年くらい必要だったのだ。そもそも20年という熟成期間が『エヴァンゲリオン』という作品を完結するためには必要だったのだ。
 それにあれから20年経ったから、アニメ評論はもっと落ち着いたし、緻密に物事を考えられるようになった。テレビシリーズの頃は哲学の初歩から説明していたが、今の時代ならそんな説明は不要だ。そういう解説はユーザー間で勝手にやってくれるという、安心感が今の時代にはある。20年の時を経て庵野秀明もアップデートしたし、アニメファンもコミュニティのアップデートした。だからこそ、やっとこさ『エヴァンゲリオン』は映像作品として物語として完結させられたように思える。

 『エヴァンゲリオン』を完結に導くために、『シン・エヴァ』はあらゆる面が再構築されている。その大きなものは、真希波・マリ・イラストリアスの存在だ。
 『シン・エヴァ』は最終局面で作画から中割が抜け落ち、色が抜け落ちていった。アニメの制作工程を逆にマイナスしていった映像だ。あのまま進めば、かつてのテレビシリーズや旧劇場版のように碇シンジは消滅してしまい、「次のエヴァンゲリオンへ……」ということになる。
 『エヴァンゲリオン』は実はループし続けている世界で、そのループは『魔法少女まどか☆マギカ』のような「物語」の中で整合性を持った世界観の話ではなく、『エヴァンゲリオン』は物語の外で起きた世界も言及している。どういうことかというと、テレビシリーズから始まって、旧劇場版やゲーム版、コミック版で描かれた世界……そういうスピンオフ的に作られた『エヴァ』の物語は実はすべて別世界線で起きた出来事……という考え方だ。それらの『エヴァンゲリオン』は、最終局面ですべて破綻して終わっていたのだ。あれら全てのお話を「なかったこと」にはしていないのだ。その実態を唯一観測していたのが渚カヲルだった。それら全てを引き受けて、終幕に導くお話だったから、「さよなら、全てのエヴァンゲリオン」という台詞があったのだ。
 普通の物語では、「設定」というのはその物語中に語られない傍流の物語を作ることであるが、『エヴァンゲリオン』に限っては現実で展開していたすべての「エヴァンゲリオン・コンテンツ」に関するできごとが、「設定」となって構築されていた。
 今回の『シン・エヴァ』も「世界の消失・再構築」で終わりか――というそこで飛び込んできたのがマリだった。だからマリは「間に合った!」と喝采の声を上げる。マリが碇シンジを引っ張り上げて、世界の終わりと繰り返しを防いだ。マリこそが完結への導き手だった。
 マリは新劇場版になって初めて登場したキャラクターだったが、描いたのは庵野秀明……ではなく鶴巻和哉だそうだ。庵野秀明の想像力の外からやってきた……みたいな作られ方をしている。
 だからこそ、マリというキャラクターは良かった。完全にシリーズの外から紛れ込んできた闖入者だ。もしも「全てが庵野秀明の創造物」で占められていたら、今回の劇場版も世界の終わりを迎えていたのかも知れない。お話を見ても、渚カヲルを送り出し、綾波レイを送り出し、アスカを送り出し……その後、碇シンジを連れ出す人がいない。マリという、「外からやってきた闖入者」が碇シンジを引きずり出さなければならなかったのだ。
 今風に言うと、マリの登場によってようやく、完結へ導くフラグが立った……というわけだ。

 他にも新劇場版になってアップデートされた要素は多い。碇ゲンドウー渚カヲルの対応関係は、テレビシリーズの頃に意図されていたとは思えない。ミサトとシンジの関係は、テレビシリーズの時は同棲中の恋人と母子……という関係性が混濁していたが(シンジはなにかとミサトを性的な目で見ていた)、新劇場版になってミサトは出産を経験し、ミサトとシンジの関係ははっきりと母ー子という関係になった。こういった構造が、初期のテレビシリーズの頃から意図されていたとは思えない。新劇場版になって、やっと思いついたアイデアだったと思う。
 最後に実写映像を見せて終わり……というエンディングも同じようにテレビシリーズの頃から思いついていたとは思えない。

 何もかもが完結に向けてアップデートされたものだった。これらの要素に行き着いたから、やっとこさ『エヴァンゲリオン』をいかにして完結させられるのか……ということに行き着けたのだ。もともとはテレビシリーズの時に考えていたものだったのだろう。だが『シン・エヴァ』のように誰もが納得感ある結末に導くには、25年の熟成期間は必要だったのだ。
 『エヴァンゲリオン』という作品を俯瞰して見ると、テレビシリーズや旧劇場版の頃は、私たちアニメコミュティは何も理解できていなかった。庵野秀明自身も、自分の構想をどうやったら映像にして物語にできるのか、わかっていたわけではなかったはずだ。
 アニメコミュティや評論がアップデートされてもう少し大人な理解力を身につけられて、庵野秀明自身も自分の構想の正体に行き着いて……どうして25年の時が必要だったのかというと、すべてのものがエヴァンゲリオンという怪物に追いつかなければならなかったからだった。
 そういうものも、「後になったから言える」という話だけど。

 後になって考えて「恥ずかしいなぁ」と思うのは、『エヴァンゲリオン』のテレビシリーズの後、アニメ界隈に雨後の筍のごとく生まれた「セカイ系」と呼ばれるジャンルだ。
 今にして思うと、あれこそ勘違いで生まれたものだったんだなぁ……。『エヴァンゲリオン』の内容を読み間違えて、勘違い考察の結果だ。みんながみんななりに考えた「エヴァンゲリオンってこういうものじゃないの」という二次創作的な創造物が「セカイ系」だった。(あんなものオリジナルじゃない。ぜんぶ二次創作だ)
 今になって思うと、理解力が足りなかったゆえに起きた副産物だった……恥ずかしい。

作家は自分が生み出した傑作に殺される

 2007年『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の第一作目が公開される。
 私の記憶では、当初は『エヴァンゲリオン』の何周年目かのメモリアル的なものを作るつもりが、旧作のスタッフがみんな集まってきたから、それとは違う作品を作ろう、あの時描ききれなかった作品をちゃんと完結まで導こう……という経緯だったと記憶している。
 もともとは同窓会的な作品を作ろう、という計画だった……と記憶している。
 最近は、10年前や20年前の懐かしの人気作が、若いスタッフ達によって復活……という潮流が業界内で起きている。その作品が好きだった人が作り手になり、それなりの地位を持つようになり、それで自分が好きだった作品をもう一度自分の手で……という経緯だ。この流れはおそらくずっと続くと考えられるから、アニメは10年~20年スパンでリバイバルされ続けるんじゃないか……と私は見ている(だから最近のリバイバル作品はプロの手による「2次創作」である)。
 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』はどちらかといえば、そういう流れにある作品の一つだった。それが、そうじゃなくて完全なる新作で、ちゃんと完結まで作ろう……と計画を変更したことで、構想の内実が大きく変わった。

 しかし『エヴァンゲリオン』のリバイバルには一つ大きな問題があった。『エヴァンゲリオン』は伝説的な作品になっていたことだ。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』一作目の頃も、テレビシリーズから12年も過ぎていて、単に「かつて社会現象を起こした作品」というだけではなく、アニメファン・アニメクリエイターたちにとって「神格化」される作品に変わっていた。私たちの創作の歴史は、ずっと「エヴァ以後」なのだ。
 『エヴァンゲリオン』はすでに庵野秀明という個人の創造物という範疇から離れて、みんなの頭の中、心の中で肥大化し、崇敬される作品へと変わっていた。
 それを完結に導くという……これがどんなに大変なことだったか。

 サリンジャーは1951年『ライ麦畑でつかまえて』を発表する。この作品はご存じの通り、「不朽の名作」となり、6000万部を売り上げるベストセラーになった。発売直後だけでこれだけ売れたわけではなく、発売から50年間、ずっと毎年50万部ずつ売れ続けて、この数字になったのだ。
 サリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』というたった一作で、一生分を暮らしていけるだけの安定収入を手にできたのである。
 これだけ聞くと、ハッピーな話に聞こえる。なにしろ働かなくても、毎年50万部の印税を手にすることができたわけだから。
 ところが『ライ麦畑でつかまえて』はサリンジャーにとって重くのしかかるようになる。サリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』の後も、小説家として執筆活動を続けていた。ところが、『ライ麦畑でつかまえて』以降の作品はまったく注目されていないし、『ライ麦畑でつかまえての作家』というイメージをずっと刷新できず引きずり続けてしまった。『ライ麦畑でつかまえて』があまりにも有名すぎて、その後の作品が全てかすんでしまったのだった。
 あまりにも有名すぎる作品を書いてしまったから、日常生活にも支障をきたすようになってしまった。どこへ行っても、「あっ! サリンジャーだ」と声をかけられてしまう。どこへ行っても「特別な人間」として注目されてしまう。ごく普通の、平凡な暮らしができなくなってしまった。
 それでサリンジャーは、その後ずっと引きこもりのような生活になり、2010年、ひっそりとこの世を去ることになる。
 Wikipediaによると、最終的に行き着いた地域では、地元住民もサリンジャーに相当気遣って、「特別な人間として扱わない」よう配慮していたそうだ。お互いに配慮し合わなければ、まともに暮らすことすらできない。大傑作、大名作を書いてしまうと、そういう苦労を背負い込んでしまうのだ。

 どんな作家も、「傑作を書きたい」と思っている。「ベストセラー作家になりたい」そう願って作品を書き続けている。どんな作家もそれくらいの本気度で作品と向き合っているし、自分が描いている作品こそそうなるに相応しいのだと思い込んで執筆に臨んでいる。
 ところが、本当にベストセラー作家になると、今度はその作品自体に作家が引きずられるようになる。「翌年の税金が重い」というだけの話ではない。作品自体が、作家の経歴に重くのしかかり、それが作家を苦しめていくようになる。

(※ 翌年の税金が重い…… 税収額は前年の収入を基準に決められるので、うっかり大ヒット作品を描いてしまうと、翌年の税収がとんでもない額になり、それでベストセラーを書いた翌年には貧乏生活に逆戻り……ということが作家の世界では昔から起きている。今回にちなんだ話をすると『シン・ゴジラ』が大ヒットした後、その翌年の税金が大変だったそうな……)

 私も色んな作品を見てきたけれども、特に「社会現象級ヒット作品」を作ってしまった作家は、その後確実に佳作になっていく。その後の作品を書いても、ずっと「あの大ヒット作品の作家」と代表作が変わらないし、評論家からは「その後の作品はイマイチ」と書かれるし、一般ユーザーは「枯れた作家」とかなんとか言われてしまう。
 ベストセラー作家がどんな苦悩を抱えているか想像するしかないが、おそらくは書いた本人も「これどうしようか」「この続きどうしようか」と悩み続けているのだろう。
 「社会現象級ヒット作」というものの内実を言うと、「世の中の流れをたった一作で変えた作品」ということになる。その1作品の存在が、それまでの創作の常識を変えて、その時代の人々に新しい思考を与えた。その後の創作の、プロトタイプにもなりうる作品を、社会現象級ヒット作品と呼ぶ。
 うっかりそんなものを描いてしまったら、色んな人にその次も期待される。普通の人々は無邪気に、「あの作家なら次も同じような感動を与えてくれるに違いない」と期待する。「あの名作を書いた作家」として扱われてしまう。社会現象を起こしたときのようなショックが新作になかったら「枯れた作家」とすぐに言われてしまう。
 自分自身でも、自分の作品に対して「これでいいのか」「これが正しいのか」と悩み始めてしまう。「自分はベストセラー作家だ」という自意識に目覚めてしまうと、気軽な作品が描けなくなってしまう。すると自分で自分の作品にダメ出しを始めてしまう。「これはあの作品に似ている」「これは自分の作品の焼き直しに過ぎない」と。それでどんどん描けなくなってしまう……私の想像では、そうやって作品が描けなくなってしまうんじゃないかと考えている。

 そうやって次第に発表間隔が長くなっていき、10年に1本とか20年に1本の作家になっていく。

 ライトノベルの界隈で発表間隔が長くなっていった作品といえば、『涼宮ハルヒ』シリーズがある。
 初期の頃はもっと発表間隔は短かったし、その内容もシンプルな「少し変わった学園もの」に過ぎなかったはずだ。
 ところが『涼宮ハルヒ』シリーズは巻を重ねるごとに構想が複雑に緻密になっていき、本もどんどん分厚くなっていった。初期の頃はまだ「奇をてらった作品」程度でしかなかったはずだけど、『涼宮ハルヒの消失』あたりからそれとは全く別の何かに変容していった。  おそらくは初期の頃はそんな作品に変貌するとは、作者自身も想像していなかっただろう。構想がどんどん大きくなり、構成がどんどん複雑に入り組むようになり、このどうしようもないゴルディアスの結び目をいかにすればほどけるのか、作者自身もわからなくなり、途方に暮れているのだろう。
 実はそういう作家は時々いる。ミステリ小説でも毎回トリックや構造が複雑化して、本が分厚くなっていって、その次はもっと凄いものを、もっと驚くものを……と構想が膨らみ、膨らみすぎて自分でも収集がつかなくなり、それで発表間隔が長くなってしまう作家がよくいる。谷川流はそういうジレンマに陥ってしまったのだろう。

 ベストセラー作品というのは、意図的に生まれてくるものではなく、ある種の「事故」的に生まれるものだ。中にはとんでもない才能があったからこそ必然で生まれた……という作品もある。でもほとんどは「事故」的に、偶発的に生まれてくる。『ライ麦畑でつかまえて』も『エヴァンゲリオン』も「社会現象を起こしてやろう」なんて思って作ったわけではない。ベストセラーになってしまったのは事故だ。

 そうすると、作家として本当にハッピーになろうと思うと、同クオリティ作品をポンポンポンと年に2~3本書き続けることである。ある程度以上クオリティを上げない、本を分厚くしない、構想を大きくしない。そして売れ方も「そこそこ」を維持し続ける。
 といっても、それはそれでかなり器用な作品の作り方だ。そんなふうに順調に本を出して順調に売れ続けようと思ったら、そこそこ「人気作家」にならなければならない。売れなかったら、出版社はいとも簡単に作家を切り捨てるからだ。そんな作家に望んでなれるかというと、なれるわけではない。「結果としてなる」というだけだ。ベストセラー作家も事故的に「結果的になってしまった」わけだけど。

 週刊連載漫画の大ヒット作家がその後、姿を消してしまうのは、あの時の自分が描いた作品を超えることができないからだ。週刊少年ジャンプの黄金期を支えたマンガ家達は、何人かはその後も現役の漫画家を続けているが、ほとんどが姿を消してしまっている。
 ジャンプの黄金期と呼ばれていた時代は、作家が辞めたいと思っても、雑誌経営のために連載を続けることを至上命題にしてしまっていた。そのおかげで作家は消耗しきってしまい、作家生命も消耗しきってそれで終わり……という事例が多かった。
 本来なら、物語がきちんと終わったタイミングで連載を終えて、次の作品に臨むべきだった。あの作家達も、もしかしたらもっと色んな作品の構想を持っていたかも知れなかった。でもある時期までは雑誌運営のほうを至上命題にしていたため、作家達は摩耗しきって終わってしまった。

 そう思うと、『鬼滅の刃』は早々に終われて良かった。これは皮肉でこう言っているのではなく、早々に終われたから吾峠呼世晴という才能が枯れきってしまうこともなく、その次に期待できる、という意味だ。早々に終われたからこそ、次の作品に挑戦できる余裕が生まれた。
 かつてのように雑誌経営のために連載延長、ストーリー延長……なんてなったらお話が持っている緊張感も薄れて、作品だけではなく作家も摩耗して終わってしまっただろう。そいう時代を見てきたからこそ、早々に終わって良かった。
 『鬼滅の刃』は連載が終わるタイミングでアニメが大ヒットとなり、世界的社会現象を生み出してしまった。それは作家にとって大きなプレッシャーになるだろう。人々は「あの社会現象を起こした作家」として見るし、次も同じようなヒット作を期待するし、それほどの作品が生まれなかったら、すぐに「枯れた」とか言われてしまう。
 これだけのヒット作を事故的に生んでしまったのだから、そのプレッシャーはやむを得ないものだろう。しかし、うまいタイミングで終われたからこそ、今みたいな騒動が終わるくらいのタイミングで、無理せず次の作品に臨んでほしい。

 余談になるが、サンデー作家の高橋留美子は偉大だ。週刊連載を絶やさず描き続け、ほとんどの連載作品はアニメ化して大ヒットを飛ばしている。そんな作家は高橋留美子くらいしかいない……ということがその難しさを物語っている。
 例えば『うる星やつら』という作品だ。この作品をほぼコピーしたような作品は、今まんがアニメ界隈に山ほどある。鬼の角を付けた女の子に、とんでもないバカ力の女の子、極端に男嫌いで男を見るととりあえず殴りかかる女の子……。みんな高橋留美子のオリジナルだ。高橋留美子のイミテーションが漫画・アニメ業界に山のようにあふれている。高橋留美子のストーリー・キャラクターはすでに業界内において公共物(テンプレート)扱いだから、誰も「パクりだ」とは言わない。
 高橋留美子の凄さは、それだけの創造性を発揮しながら、自分が作り出したベストセラーの重荷を感じることもなく、今でも現役で軽やかに作品を生産し続け、新たな伝説を刷新し続けていることだ。ずっとオリジナルの作家であり続けている。
 高橋留美子は作家の中でも例外的な存在だが、世の中にはそういう作家もいるということを示しておきたい。

庵野秀明は逃げなかった

「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ……」

 『エヴァンゲリオン』を完結させる――それは容易なことではなかったはずだ。単に頭に浮かんでいた「結末」のイメージを降ろしていけばいい……というわけではない。なぜなら『エヴァンゲリオン』は時を経るごとに「伝説の作品」としての格を上げ続けてしまった。かつてのような、「夕方6時にぽつんとやっていた作品」ではない。『エヴァンゲリオン』は、伝説的な「あのエヴァンゲリオン」になっていた。人々は「伝説の作品:エヴァンゲリオン」を期待して映画館にやってくるのだ。
 かつて社会現象を起こした作品があったとしても、時代の感性は確実にアップデートされていくわけだから、同じことをやっても「今の時代にやると平凡だったね」ということにもなってしまう。『エヴァンゲリオン』を観に来た人々は、あの時受けた感動と、同じ感動があることを期待する。それは実は「同じ感動」ではなく「それ以上の感動」だ。そうした人々の期待を引き受けつつ、さらにもう一つ上の何かを見せなければならない。
 映像はもっと格好良く。誰も見たことのない映像を。『エヴァンゲリオン』の完結に相応しい画とはなんであるか。シナリオやテーマはみんなが驚くようなものを用意できているだろうか。それ以前に、ちゃんと伝わるようにできているだろうか……。
 庵野秀明はその挑戦に立ち向かった。だがその道のりは困難なものだった。『エヴァンゲリオン』と向き合うと、そのたびに鬱病を発症してしまう。『エヴァンゲリオンQ』の後は症状が悪化してアニメの現場から離れなくてはならなかった。
 その間のリハビリとして作ったのが『シン・ゴジラ』(2016)という傑作だった……というのが恐ろしい話だ。

 「天才」と呼ばれる人達はみんな何かしらの「欠点」を抱えるものだ。
 例えば黒澤明は日本映画界の巨匠として知られるが、彼は「癲癇」だった。また人格面にもかなりの問題があり、ちょっとしたことでも怒鳴り散らしてしまう。癲癇だったから、怒鳴り散らした後、静かにしていると思ったら気絶していることがしばしばあったそうだ。それでいて実はナイーブで、その傷つきやすい内面をごまかすために「独裁者」として振る舞っている面があった。
 私が常々考えていることは、「人間に与えられたスキルポイントの上限は決まっている」。で、天才と呼ばれる人達はある一つの能力に対して極端にスキルポイントを振ってしまっている。だから何かしらの欠点を抱える(これがもっと極端になると、サヴァンになる……と私は考えている)。歴史上の色んな天才達を見てきたけれども、「全方面の天才」なんてものは見たことがない。そういう人間は、これからの時代でも現れることは決してないはずだ。
 庵野秀明が天才的な感性の代償として抱えてしまった欠点は「心が弱いこと」。メンタルの異常な弱さだ。『エヴァンゲリオン』の碇シンジが誰に似ているか、と言われたら庵野秀明だ。
 心が弱いから、『エヴァンゲリオン』というかつて失敗した企画に向き合うと、次第に精神を蝕まれてしまう。しかも、『エヴァンゲリオン』は結末に向かって想像絶する難題を抱えている。あれをどのように伝えるか、どうやったら伝わるか。考えなければならないことは多いし、大いに悩まなくてはならない。悩みすぎて、次第に精神も不安定になっていく。「伝説の作品」を引き受けて完結に導かなければならないプレッシャーもあるだろう。

 それでも庵野秀明は逃げなかった。立ち向かう決意をして『完結編』と向き合った。

 『日本アニメーター見本市』や『シン・ゴジラ』という寄り道をしながら、ようやく『シン・エヴァンゲリオン完結編』と向き合うが、前作『~Q』を終えてから8年が経過していた。普通の企画なら「頓挫」しているところだ。『エヴァンゲリオン』という伝説の作品だからこそ、こうやって最後まで企画が動き続けたのだ……というしかない。
 ようやく向き合うようになった……とはいえ、現場が動き始めてからもまだ全てのビジョンが見えているわけではなかった。スタッフが挙げてくるアイデアやイメージ画を片っ端から没にして行く。しかも「こうして欲しい」という指示も出さない。スタッフは方向性すらわからず、ただただ闇雲に絵を描いては挙げて、没を喰らっていく。
 普通の映画の現場、普通のアニメの現場だったら、とっくに殴り合いの喧嘩が始まっているところだ。監督が作品の方向性を示すことがなければ、自分の好みすら語らない。映画の現場はスタッフを待機させるだけでもどんどん予算を消費していくから、無駄に現場が空転していくことになる。NHKのドキュメンタリーを見ていると、そういう場面がいくつも描かれていた。庵野秀明自身が、なかなか動かない。
 驚くべきは、制作会社カラーのスタッフとの関係性だ。監督が具体的な方向性を示さず、ダメ出しばかりし続けるような状況なのに、スタッフは気にせず新しいアイデアをどんどん提供していく。没にされても、それをネタに笑っている。庵野監督とスタッフとの信頼関係がいかに深いかわかってくる。
(「監督を降ろす・降ろさない」みたいな話題が一切出てこなかった。普通の映画の現場だったら、間違いなくこういう話題は出ていたはずだ。ドキュメンタリーを見ると、そういう状態だったから)
 鶴巻和哉監督は、ある場面で「最後なんだから好きにさせよう」と語っている。もはや「愛情」すら感じるコメントだ。
 あの現場で庵野秀明が「神」だから、そんな対応をしていたわけではないだろう。25年続いたコンテンツの最後を飾る作品だから納得するまで考えて映像を作らせたい。それは庵野秀明個人の気持ちの話ではなく、スタッフ全員が共有していた。全員が『エヴァンゲリオン』というコンテンツをきちんと終わらせて卒業したい。『エヴァンゲリオン』のキャラクター達を送り出すとともに、自分たちの気持ちも送り出したい……。あの現場はそういう気持ちで結びついていたのではないだろうか。

エヴァ以後の作り手はどう考えるべきか?

 そうやって幾多の苦難を乗り越えて完成した『シン・エヴァンゲリオン完結編』は驚くような内容だった。「エヴァンゲリオンは完結しないし、完結させられない」……とずっと言われ続けてきたことだったが、今作で綺麗に終わった。「伏線を回収して、パズルのピースにように当てはめて終わった」という感じではない。「エヴァンゲリオンへの思い」そのものを綺麗に包んで送り出す……ような終わり方だった。例えて言うなら「卒業式」だった。「卒業式」こそ『エヴァンゲリオン』が最終的に目指したものだったのだろう。

 その終わらせ方もユニークだった。終盤へ向かい、次第に「エヴァ」の世界観がただの特撮セットになっていく。普通の創作の場合、ああいった裏側が見えないように「設定」を作り込み、うっかり「作り手の顔」が見えないように様々な細工を施すものなのだけど、むしろ逆に見せてしまった。しかも、その特撮セットがしっかり作り込まれていて、「虚構内虚構」というような作りになっていた。「虚構内虚構」の上に、『エヴァンゲリオン』の「設定」や「物語」が乗っている構造だった。
 かつての旧劇場版でもコンテ画やセル画の裏を見せていたけれど、もっと洗練されていたし、『エヴァンゲリオン』のストーリーにもきちんと沿った見せ方だ。テレビシリーズの時や旧劇場版の時は、どうしてあんな見せ方をしていたのか、わからなかった。表現に物語が寄り添っておらず、「投げっぱなし」の表現に感じられていた。それが『完結編』では綺麗に整理され、一つ一つのイメージがきちんとした意味を持って立ち上がってくる。実はテレビシリーズと旧劇場版と同じことをやっていたのだけど、改めてそこに「ストーリー」というガイドラインが作られて、誰が観てもわかるような内容になっていた。それでいて、見ている人の気持ちを終幕に導いてくれた。
 旧劇場版の時はなかば自棄っぱちの無理やり強引に終わらせていた感があったし、旧劇場版のラストは碇シンジの精神は壊れたまま、覚醒を迎えないままだった。あれは「失敗ルート」だった。それが『完結編』ではようやく「正解ルート」へ行き着くことになる。

 押井守による『エヴァンゲリオン』評の中に、
「ひと言で言うと『エヴァ』という作品は、まるで明治期の自然主義文学の如き私小説的内実を、メタフィクションから脱構築まで、何でもありの形式で成立させた奇怪な複合物であります」
 というコメントがあり、この一文で当時のアニメファン達は怒り狂って炎上となった。だが私は「正しい指摘」と感じていた。今でも正しいと感じている。実際に『エヴァンゲリオン』はコンテ画やセルの裏側を見せて、「メタフィクションから脱構築」の「何でもありの形式で成立させた奇怪な複合物」だった。押井守監督は旧劇場版を一度見て、それを見抜いたのだった。先の宮崎駿の例といい、やはりあのあたりのクリエイターと私たち素人とはステージが違うのだ。

 『シン・エヴァンゲリオン完結編』は庵野秀明がこれまでの視聴経験で得て、積み上げてきた「オタク的なもの」の組み合わせただけにすぎない……ということを告白しているように感じた。『DAICON3』の延長上のものでしかない。
 要するに「私たちの想像力なんて、一枚引っ剥がすとあんなもんですよ」……と。所詮は、その前世代が作り上げた虚構を、自分たちの手で再生産しているに過ぎない。リアリティなんてものはそこにない。フィクションなるものの限界を告白しているように思えた。
 その映像を見て、私はいくらか動揺した。というのも、今世代の創作はほとんど「エヴァ以後」の意識で作っている。単純に、エヴァンゲリオンのキャラクターや設定をパクっている。強気な女の子が手前に指を突き出しているポーズなんて、あれの元ネタはアスカ・惣流・ラングレーだ。
 1996年に「エヴァショック」なるものがあって、単にストーリーやキャラクターを作るという段階から、その内面や社会といった複雑な面まで切り込むようになっていった。そういう人間や社会に対する深い洞察が始まったのは、『エヴァンゲリオン』からだ。
 『エヴァンゲリオン』のテレビシリーズから25年も過ぎているから、若い世代はもはや『エヴァンゲリオン』のシリーズを見ていないという人も多い。しかし知らないうちに『エヴァ』の影響を受けて、「エヴァ以後」というカテゴリーの中で作品を描いている。すでに時代が「エヴァ以後」なのだから、そうした中で作品を作ろうとしたら、間接的にも影響を受けるのは当たり前だ。それくらいに私たちは「エヴァ以後」というチルドレンになっていた。
 その『エヴァンゲリオン』が、「所詮は虚構でございますよ」と告白するような映像を作ってしまった。
 壁を破壊したらその向こうの部屋が見えてくる……という「設定」ではなく、セット裏のベニヤ板が見えて、スタジオの壁や脚立が見えてくる。不思議なくらい、そういうスタジオの裏側風景をリアルに描き込んでいる。これは要するに『旧劇場版』でセル画の裏を見せる手法と同じなのだけど、セット裏の虚構をリアルに描写してみせることで、よりメッセージ性がストレートになった。今までは「複雑奇怪な複合物である」という側面を隠してフィクションを作っていたものが『シン・エヴァンゲリオン完結編』では「複雑奇怪な複合物」であることを有り体に見せてしまった。

 私はこれをある種の提唱のように感じていた。すると私たち「エヴァ以後」の作り手達はどうするべきなのか?
 アニメの表現ははっきりと「袋小路」に突き進んでいる。「アニメは絵に書かれたものだから自由だ!」……ではない。みんなどこかで作られたものの再生産になっている。ライトノベルのほとんどに創造性なぞなく、アニメで作られた「約束事」を反復しているだけに過ぎない。どの作品を見ても、綾波レイとアスカの複製みたいなキャラクターが出てくる。みんな想像力の元素をアニメからいただいて、その再生産で作品を作っている。するとその作られるものの限界点が「過去にアニメで表現されたもの」の範疇に留まってしまう。
 私たちはみんなオタク的に、前世代が作り上げたイメージを受け取って、自分なりの作品を作ろうとしている。一次創作に思えて、実は2次創作……(オリジナリティは少しくらいあるから、1.9次創作くらいかな)。私たちの持っているイメージの中で、もっとも大きなものが『エヴァンゲリオン』だった。『エヴァンゲリオン』は私たちのシンボルだった。
 その『エヴァンゲリオン』が「私たちの作っているものなんて所詮は虚構」と告白してしまった。さて、私たちは何を描くべきなのか?

エヴァンゲリオン以降のセカンドライフ

 『シン・エヴァンゲリオン完結編』は単に『エヴァンゲリオン』という物語を畳んだだけではなく、「エヴァ以後」という時代も鮮やかにまとめてくれたように感じた。それは同時に、庵野秀明という才能がもたらす「アニメイメージ」の限界点を見せてくれたように感じた。『エヴァンゲリオン』が終わったと同時に、「アニメ作家」としての庵野秀明も終わった……そんなふうに感じた。
 いや、もちろんこれで庵野秀明がアニメ引退……というわけではない。庵野秀明にはまだまだ新たな作品を作ってもらいたい。しかしもしもアニメに取り組んだところで、『エヴァンゲリオン』以上のものはきっともう出てこないだろう。それくらいの限界点を目指して作り出した作品が『シン・エヴァンゲリオン完結編』だ。これ以降の作品が、ポンと出てくるわけもないだろう。

 『エヴァンゲリオン』が終わって、時代をずっと捉えていた「呪い」が解放された。私なんかは「テレビシリーズを見た記憶なんて遙か彼方」というつもりだったけれども、やはりどこか「エヴァの呪い」を受けていて、『シン・エヴァ』によって解放された感覚があった。私も捕らわれていたのだ。
 でもその一番の呪縛から解放されたのは庵野秀明自身だろう。庵野秀明はずっと『エヴァンゲリオン』に苦しまされてきた人だった。意図せず事故的であったとしても、「時代を変える」作品を生み出してしまい、しかしその作品は「未完」のまま。終わらせないと、呪いは永久に庵野秀明に取り憑いて、永久に「エヴァの人」と言われ続ける。『エヴァンゲリオン』と向き合うたびにその呪いは強力になって庵野秀明の背中にのしかかってくる。しかしそれでも果敢に向き合って、『エヴァンゲリオン』を完結させ、呪いを浄化させた。もしかすると、鬱病からも解放されたのではないだろうか。『エヴァ』という重圧から解放されたのは、他でもない庵野秀明自身だった。
 これはサリンジャーが『ライ麦畑でつかまえて』の呪いから解放されたみたいな話だ。サリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』という化け物的ベストセラーに呪われて一生を終えたけど、庵野秀明は『シン・エヴァンゲリオン完結編』でその呪いを祝祭に変えて終了させた。これは大変な話だ。なにしろ、自分のベストセラーを自分自身で引導を渡した人間なんて、過去にいないのだ。

 ようやく『エヴァンゲリオン』から解放された庵野秀明に待っているのは、次の人生だ。すでに『シン・ゴジラ』があって、そのおかげで「次」へ進むための道筋ができた。『シン・ウルトラマン』に『シン・仮面ライダー』。どれも楽しみだ。
 もしかしたらどこかでアニメに戻ってくるかも知れないし、このまま特撮映画のリメイク「シン・シリーズ」を取り続ける監督になるのかも知れない。私としてはどちらでも構わない。ようやく『エヴァンゲリオン』から解放されて、手に入れた「第2の人生」なのだから。これからは自由に好きなものを作り続けて欲しい……。私はそう願っている。


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