マガジンのカバー画像

マチネの終わりに

51
運営しているクリエイター

#リハビリ

『マチネの終わりに』第七章(38)

『マチネの終わりに』第七章(38)

 医師は、祖父江のことも蒔野のことも知らなかったが、担当になってから興味を持ったらしく、CDにサインを求められ、以来、リハビリの説明も、楽器の演奏を例に出す機会が増えた。

 蒔野は演奏家として、そんなことを一々気にしながらギターを弾くわけではなかった。

 神経科学についても、定説とされている話を、漠然とイメージするに過ぎなかったが、演奏に関して、芸術表現がその陳述的記憶に、運動能力が非陳述的記

もっとみる
『マチネの終わりに』第七章(37)

『マチネの終わりに』第七章(37)

 酷い有様だった。しかしとにかく、目の前の楽器を弾けないというあの耐え難い苦しみは、終わったのだった。それを実感し、安堵すると、彼は、自分がつい今し方まで捕らわれていた恐ろしい場所を振り返った。そして、もう二度と戻りたくないと心底思った。

 皮が薄くなってしまった指先には、弦の摩擦の初々しい痛みと熱が残っていた。どこか照れ臭いような喜びが、全身に染み渡っていった。

 ――なぜ一年半もかかってし

もっとみる