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雪、燃ゆ。

 7月4日は科学者・中谷宇吉郎の誕生日だったそうだ。中谷といえば、戦前から雪の研究に没頭し、科学者でありながら「雪の結晶は、天から送られた手紙である」と詩情豊かに表現し、その他数々の情緒あふれる随想を書いており、ファンも多い。

 そんな、雪の研究者でありエッセイの名手でもある中谷は、かつてその発言によって「炎上」したことがある。

 1954年3月、ビキニ環礁での米国の水爆実験により、日本の漁船が「死の灰」をかぶって被爆したこと(第五福竜丸事件)は、第二次世界大戦において原爆を経験してから10年も経たない日本に、大きな衝撃を与えた。

 この事件に関して、中谷宇吉郎が毎日新聞(1954年4月8日付)の学芸欄に「ちえのない人々」という一文を寄稿した。中谷は当時、シカゴの氷雪凍土研究所に招かれて米国に滞在中であり、米国から寄稿したこの一文には「”ビキニ被災”をアメリカでみて」という副題が付されている。

 この「ちえのない人々」という寄稿文は、中谷がシカゴで新聞から得た情報に基づき、日米の国際政治的な利害一致の観点から、福竜丸事件の処理における「ちえの欠如」を指摘したもので、父(中谷)と娘の会話の体裁をとって書かれている。折しも冷戦と呼ばれる国際環境が形成されつつある頃で、米ソの核兵器開発競争の初期でもあった。

 中谷は、ソ連に水爆の情報が知られることを最も警戒しているはずの米国が、早急に(可能であれば事件が発生してから日本政府に知れるまでに)第五福竜丸の所有者や被爆者をそれなりの金銭で買収し、被爆した福竜丸の船体を確保しなかったことを、「知恵の欠如」だと評した。そして返す刀で、日本側に対しても、すぐに米国から金を受け取って事態を収めなかったことが「ちえ」の欠如だと述べた。中谷が、事件の早急な内部処理が必要と述べた背景には、日本側が福竜丸の灰を分析してその結果を公表したという事実がある。それによって、当時冷戦下で米国と敵対するソ連に水爆の秘密を合法的に知らせてしまったことを問題視したわけで、極めて政治的な発言といえる。

 福竜丸事件は発生直後から、日本で大きく報じられていた。さらに、米国では、福竜丸が予め通告されていた水域に侵入していたのではないかという声や、ソ連の手先でスパイ活動を行っていたのではないかと疑う声も少なからずあり、米国の事件調査委員会の会長がこうしたスパイ説を支持する一幕さえあったので、日本の世論は沸騰していた。福竜丸は水域を犯してはいなかったのであり、船員たちは被害者であった。当然、中谷の寄稿文は各方面から批判の的となった。まさに火に油を注いだ事態となったのである。

 中谷の寄稿文を厳しく批判した一人に、歴史学者の石母田正がいる。石母田は、1954年7月に中谷の寄稿文と同じ「ちえのない人々」という標題を掲げた文章を発表している。(実のところ、筆者は中谷の記事を、石母田の評論集に収められたこの小論で知った。)石母田は中谷の言い分を「鬼畜の言葉」だと非難するとともに、中谷宇吉郎自身に対しても「戦争中、軍部に協力した指導的な自然科学者」として糾弾の手を緩めない。しかも、中谷は戦後においても、米軍から研究費を与えられて氷晶の成長速度に関する研究をするために北海道大学の施設の使用を要請し、北大の教授たちから反対されるという経緯もあった。

 このように浴びせられた非難に対して中谷がどう考えていたかはわからない。資料がなく、管見の限りでは中谷の評伝類でも彼のリアクションについては触れられていないので、反論も撤回もせず沈黙を保った可能性がある。中谷がこのような、雪に対する愛情とは対照的な、人間に対する冷ややかな言葉をもって接しなければならない理由はどこにあっただろうか。

 本記事はもちろん、中谷を一方的に中傷したり非難したりする目的で書いているわけではない。中谷宇吉郎の随筆を読んでいる限り、彼が素朴な優しさをもつ人だという印象を受けるし、常日頃から「鬼畜」の人であったとは思えない。しかし、「ちえのない人々」については、被害者意識や日本人の国民感情に配慮しない軽率な文章であったことは言い訳のしようがなく、日本のなかから非難の声があがったのは当然である。

 もちろん、中谷は少なくとも終戦直後には、科学を人間に危害を加えるために用いることに対して厳しい態度をとっており、戦争に用いることについては、決して容認していない。1945年10月の「原子爆弾雑話」で彼は、「今回の原子爆弾の残虐性を知ってからは、科学もとうとう来るべき所まで来たという気持になった」と、科学が平和を破壊するために用いられたことに対する暗澹たる心情を素直に表白している。あるいはまた「われわれの次の時代の科学はもっとその本来の姿のものであって欲しい」と言って、人類の幸福のためにあるのが科学だと明言しているのだから。

 しかし、おそらくは素朴な「善意の人」であったであろう中谷には、この事件で燃え上がった火を雪でかき消すことはできなかった。

 他方、中谷を批判した一人である石母田は、唯物史観を用いながら、「科学としての歴史学」を主張し、その実践を追究していた人物である。信条的には共産党支持者であり、その立場は明確だ。しかし科学の発展に情熱を注いだ中谷は、学問的真理探究という共通の目的をもつ、彼の同志といえるのではないのか。石母田の批判文である「ちえのない人々」は、「科学者および国民が高い思想をみにつけなければたたかえない。現在ほど思想の問題が日本人全体にとって重要な意義をもったことはかつてない」と結んでいる。しかし、石母田にとって、そのたたかうべき対象とは、「アラスカにおけるソ連にたいするアメリカの軍事基地の建設」に代表される米国の世界戦略だけなのである。彼において、思想は政治的イデオロギーと同一視され、これでは、米国びいきの中谷に対してソ連びいきの石母田が反論しただけの陳腐な政治論争に堕してしまう。科学的歴史学者を自認する石母田が批判すべきは、中谷の「鬼畜」性ではなく、その背後に横たわる世界の対立構造と、それを支える思想体系そのものではなかったか。これは、残念ながらこの時代に生きたいかなる知識人にも共通する問題点であるように思われる。当時の知識人が右か左、どちらかの立場に身を置かねばならなかったことの限界が見いだせるようである。

 この「ちえのない人々」をめぐる論争は、何のために記憶されるべきだろうか。政治的立場の違いが科学的真理探究の目をくもらせることがありうる事例としてか。あるいは、いかにイデオロギーというものが世界を席巻し、分断していたかを知る事例としてか。いずれにせよ、人が抱く思想なんてものは、社会的立場によって強烈に拘束されてしまうということを突きつけられる事例であって、我々の「思想を高める」ために教訓とすべき、ひとつの場面であると思われる。

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