見出し画像

自作絵本♪「発達障害って何だろう?」と考えてみた。

小学校1年生の息子が好きなのは、「猫」と「黒色」と「戦い」だ。最近は、猫たちが戦いを繰り広げる物語の絵本を、黒い鉛筆1色で書くのにハマっている。



「母ちゃん、いっしょに絵本かこうよ。」


ある土曜日の朝、そんなお誘いを受けた。真っ白な紙を2枚、黒い鉛筆を2本準備して、2人で肩を並べて座卓の前にペタンと座った。真っ白な紙を目の前にして、なんだか妙にワクワクした。今からこの真っ白な紙に何を書いてもいいんだ、というフワッと心の広がる感じが楽しい。


「ぼくは、いつもの物語の続きを書くね。母ちゃんはどんな物語をかくつもり?」

「いつもの物語の続き」ということは、猫たちが戦いを繰り広げる物語を、黒色の鉛筆1色で描く、ということだろうか。



「母ちゃんは、戦いの物語は思い浮かばないから、猫の平和な物語をかこうかな。」


息子が「いいね!」と言う。私は、猫たちの平和な物語を、黒い鉛筆1色で描くことにした。「何を書いてもいい状態」じゃなくなった瞬間、頭の中に描きたい物語がモワモワモワモワ〜っと浮かんできた。


鉛筆がすすんですすんで仕方がない。


息子とおしゃべりしながら、お互いの絵を見せ合いっこしながら、のんびりと描いて2時間ほど。


「かんせーい!」

小さな小さな絵本ができあがった。ものすごい達成感だ。


「母ちゃん、よんでよんで!」

自分でつくった絵本を、息子に読んであげる。そんな経験は、はじめてだ。息子と肩を並べてソファに座って、自分でつくった物語を読み始める。


(※鉛筆で描いた絵本を、スマホでスキャンしただけなので、ちょっぴり画像が汚いです(笑))




「ええ話〜!!!!」


自分で描いた絵本を読み終えた瞬間、私は泣き真似をしながら、大げさにそう言った。「自分の作った絵本を自分で声に出して読む」という照れを隠したかったのもあるけれど、半分は演技じゃなかった。息子に読んであげている途中、なぜかジンワリと涙腺がゆるんでしまったのだ。黒1色で、まるで落書きするようにサラサラと描いた絵本を読んで、うっかり心が動いてしまった。


「ええ話〜!!!母ちゃん、天才やな!!!ほんまええ話〜!!!もう1回よんで〜!」

息子は、全力でそう言ってくれた。本音なのか建前なのかが、良くも悪くも一目でわかってしまう子供の正直さ。こういうときは、この正直さがすごくうれしい。



ノリノリな気持ちで、もう一度息子に読んであげた。するとまた全力で褒めてくれた。



「母ちゃんさ、人間もこんな感じなんだって思ってるんだ。」

ふとそんな言葉が出てきて、ハッと気づいた。


この絵本には、私が最近息子に1番伝えたかったことが、ギュッとつまっていたのかもしれない。



発達障害。ADHD。アスペルガー。グレーゾーン。HSP。繊細さん。


「あれ?ちょっとうちの子、みんなと比べて変わってる?みんなと違っている?」なんて思ったときに、いろいろググっていると必ず現れる言葉たち。


息子の行動が、自分にとって意味不明なとき、心配になる。大丈夫なのかなって思う。このままでいいのかなって思う。


そんなとき、たとえば「発達障害の子には、◯◯な傾向がある」と書かれている本を見つけたら、ホッとするのだ。


ああ、わが子は発達障害なのかもしれない。だからこういう行動をとるんだ。

そう思えると、怖くなくなる。意味がわかると、怖くなくなる。意味がわからないことって、不安で怖いのだ。



発達障害。ADHD。アスペルガー。グレーゾーン。HSP。繊細さん。

そうやって、おおよその傾向で分類して、カテゴリー分けをして、まるで「取扱説明書」のように説明してくれている本やブログがある。わが子がどこに分類されるのかを、検査やチェックリストで確認して、わが子のことが少し理解できたような気持ちになる。


すごく参考になると思うし、参考にするのはすごくいいと思っていた。

なのに「発達障害」という言葉をきくと、なんだかモヤモヤとした気持ちが湧いてきてしまうのは、何でなんだろうと思っていた。



今息子が通っているオルタナティブスクールのスタッフさんと話していたとき、「発達の凸凹」という言葉を使っていて、いいなと思ったし、しっくりきたのを覚えている。


「凸凹していない人なんていないよね。みんな凸凹で、それでいいんだよね。みんなで力を合わせて、◯を目指せばいいんだよね」という感覚が、学校全体に根づいている。



凸+凹=◯

私の知っている小学校は、それを1人で目指さないといけない場所だったような気がする。私が凸なら、がんばってがんばってがんばって凹をできるように努力して、なんとか◯に近づこうとする、そんな感じ。


その中では、◯に近づこうとしない人は、「努力ができない人」とか「ダメな人」とか言われてしまったり、どうしても◯に近づけない人たちは「発達障害かもしれない」と疑われたりする。



そう考えると、「発達障害」っていったい何なんだろう、とわからなくなる。

息子が仮に、公立の小学校に通っていたとしたら。「発達障害」と診断されているのだろうか。「特別支援学級」に入っているのだろうか。息子はその学校では「障害」があり、「特別」に支援してもらう必要がある。支援はすごく充実していると聞いているけれど、なんだかその強烈な言葉たちの力に引っ張られてしまいそうだ。

かたや、息子の通う小学校では、「発達の凸凹」はみんなが持っているものだという大前提がある。自分のペースで勉強をすすめるので「障害」はない。多数決をしないので、みんなで折り合いをつけるためにトコトン話し合う。1人でも困っていたら、嫌がっていたら、みんなが納得するまで話し合う。息子はその中では「全体の中の、凸凹している1人」であるだけで、「特別」ではない。



環境が変わるだけで、「発達障害」はなくなるのかもしれない。

今通っている学校と出会って、そう感じるようになった。


そして、「発達障害」という言葉と縁もなく過ごしている人たちだって、もっともっと凸凹していられるようになればいいのに、とさえ思うようになった。



「じゃあ母ちゃんは、大きな人間のどこの部分なの?」

息子に唐突に聞かれて、ちょっと真面目に考えてみた。


「うーん・・・足の小指の爪!目立たないけど、めちゃくちゃ大事やねんで。小指の爪がなくなったら歩けなくなるらしいよ。」


えー!!!と足の小指の爪を触りながら、キャハハと笑う息子。


「りんりんは?りんりんは、大きな人間のどこの部分だと思う?」

「うーん・・・うーん・・・うーん・・・わからん!」


ノソノソと息子の隣に、猫がやってきた。フワフワの猫に顔をうずめる。おしゃべりが止まって、部屋がシンッとなった。


息子なりに、なにか考えているのかもしれない。どのくらい届いているのかはわからないけれど、私の伝えたかった「なにか」が、少しでも伝わっていたらいいなと思った。



大きな人間の、どこの部分かなんて、わからなくてもいいんだと思う。


どこの部分であっても、

その場所に合った「役割」があって
その場所でしか味わえない「幸せ」があって

そして

みんな凸凹しているのが当たり前で、

一人一人がかけがえのない「全体の一部」であって、「大切」であること。


それがわかっていれば、それでいいんだと思う。


「発達障害」って何なんだろう。

息子といっしょに何気なく絵本を描いたある土曜日、自分なりの答えを見つけたような気がしている。



この自分で描いた絵本のおとぎ話が、本当だったらいいなと思う。

本当だと信じたい物語を、心の中にそっと置いておくくらい許してほしい。

毎日そりゃいろいろ心が揺れることがあるけれど、

凸凹している自分と、
凸凹している息子と、
凸凹している全ての人たちを、

どうか愛せる自分でいられますように。

この記事が参加している募集

育児日記

大事な時間を使って、私のページにあそびにきてくださってありがとうございます。サポートうれしいです♪書きつづける励みになります(^o^)