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うっかりスマホを忘れた1日が、私に教えてくれた大切なこと。

息子の小学校の体験入学、2日目のこと。

その小学校は、家から自転車で30分のところにある。9時から3時の体験入学なので、その日は仕事をお休みしていた。

息子を小学校まで送る。
その小学校の最寄り駅から電車に乗る。
1ヶ月に1回通っている整体に行く。
カフェでのんびり。
息子を迎えに行く。

そんな予定を立てていた。


息子を無事時間通り小学校まで送ると、肩の力がスーッと抜けていくのを感じた。慣れない道を通って、慣れない場所に行くのは、自分が思っている以上にギュッと緊張するものなんだな、と気づく。


さて。

ここからどうやって最寄り駅に行くんだったっけ。昨日Googleマップで調べたときは、自転車で10分くらいだと表示されていた。

背負っているリュックの右側の横ポケットに、ほとんど無意識に手を持っていく。その場所は「私のスマホの定位置」である。


あれ?

スマホがないことに気づく。


リュックの左横ポケット、そしてリュックの中を、まるごとガサゴソと探してみたけれど見当たらない。

家にスマホを忘れてきてしまったのだ。


今から家に取りにいけば往復1時間。それはしんどすぎる。それに整体の時間に微妙に間に合わない。

幸い、財布はリュックに入っていた。
財布さえあれば、なんとかなる。
スマホがなくたって、大丈夫大丈夫。
とりあえず整体に行こう。

そのときはそう腹をくくったけれど、スマホのない世界は、想像以上に大変だった。


まずは最寄り駅までたどりつかなければならない。でも、ここから最寄り駅までの道順がわからない。この地域の地図のようなものがないかウロウロして探してみたけれど、見当たらない。

「スマホのない時代、道がわからないときってどうしてたっけ?そうだ、だれかに聞けばいいんだ。」

そう思い、キョロキョロしながら教えてくれそうな人を探してみる。



「すみません、A駅までの行き方ってご存知ですか?」

スーツを着ているサラリーマンの人に聞いてみたけれど、「ちょっとわかりません。」と言われる。


「すみません、A駅までの行き方ってご存知ですか?」

学生さんらしき人に聞いてみたけれど、「うーん・・・私遠くから来てるので、この辺のこと詳しくなくて・・・」と言われる。


「すみません、A駅までの行き方ってご存知ですか?」

地元の人らしき主婦さんに聞いてみたけれど、「あっちの方向であるのは確かなんですけど・・・けっこう遠いですよ?私もバスでしか行ったことないので、説明するのむずかしいですね・・・」と言われる。



どうやらA駅までは遠いらしい。仕方がない、バスに乗ろう!と思ったはいいものの、バス停がどこにあるのかわからない。近くにコンビニを見つけたので、コンビニの店員さんに聞こうと思いついた。私は元コンビニ店員。道を聞かれることもしばしばあり、カウンターに地図が常備されているということを知っている。


「すみません、A駅まで行きたいんですけど、この辺にバス停ってありますか?」

そう聞くと、すぐに教えてくれた。コンビニのすぐ横にあったスーパーに自転車を停めさせてもらって、そのバス停までトコトコ歩いていった。誰もいないバス停に一人ポツンと立つ。時刻表を見ると、あと15分ほど時間があった。時刻表を見るのだって、なんだか久しぶりだ。


ピタパもスマホケースのポケットに入れていたので、バスに乗るのにお金が必要だということに、ふと気づく。「小銭、あったかなぁ・・・」と思い財布を開くと、お財布には50円が1枚と1000円札が1枚しか入っていなかった。そういえばここ1年くらいはクレジットカードとペイペイでほぼ支払いをしている。クレジットカードもスマホケースのポケットに入れているので、財布を開く機会はほとんどなかった。

幸い、キャッシュカードは財布に入れていたので、もう一度コンビニに戻り、お金をおろした。お金をおろすのだって、なんだか久しぶりだ。



バスに乗る。

いつもなら座った瞬間スマホを開く。でも今日はスマホがないので、ただ座った。バスの運転手さんのアナウンスが妙にはっきりと耳に入ってくる。読み上げられていく聞き慣れない駅の名前たち。窓の外に広がり流れていく見慣れない景色。目的地に何時に着くのかもわからない。そもそもこのバスで本当にあっているのだろうか。

「次は、A駅〜A駅〜。」

そのアナウンスを聞いたとき、とっさに降車ボタンを押した。その瞬間、「次とまります。」と車内にアナウンスが響き、バス中の降車ボタンがいっせいに赤く光ってドキッとした。いつもだいたい誰かが押してくれていたこのボタン。というより、スマホに夢中でボタンを押すタイミングに気づけていなかった、といった方がいい。

「ぼくが押すからね。絶対にぼくが押すからね。母ちゃん押さないでね。」

ふと息子とバスに乗ったときの様子が頭に浮かぶ。まだかまだかとボタンを押す瞬間を待っていた息子と今日の自分を重ね合わせて、心の中でクスッと笑った。


1000円札をジャラジャラジャラと両替して、そのうちの220円を運賃箱の投入口に入れた。

なんて面倒なんだろう。

そう思いながらバスの階段を降りた。ふと鼻がかゆくなって鼻をポリポリかくと、自分の手からプンッとお金のニオイがした。

特に好きなニオイではないけれど、久しぶりにかいだそのニオイは、なんだか私をワクワクさせた。


その後も、電車の路線図を見て切符を買ったり、今何時なのかがわからなくて時計を探したり、整体のお会計では現金で支払ったり、いちいち不便で面倒だった。

でも。

電車の中で退屈だったので、阪急電車の緑色の座席に、久しぶりに指で落書きをした。(阪急電車の座席はベルベットのような生地感で、指でなぞるとその部分の色が濃ゆくなる。阪急電車に乗ったことのある方にならわかってもらえる?)

なんだか眠くなってきて、「電車で眠くなるのは、ガタンゴトンという音のリズムが心臓の音に似ていているからなんだって」と昔だれかから聞いたことを思い出した。よくよくきいてみると「たしかに似てるなぁ」と思った。

時計のあるカフェに入って、コーヒーをすすった。本当に、ただすすった。コーヒーをすすって味わうことしか、今することがないからだ。いつもよりもコーヒーの味も匂いも濃ゆい感じがした。

コーヒーを飲み終わるとすることがなくなった。何かすることはないかしらとリュックの中をあさってみると、奥の方から「キッチン」というよしもとばななさんの小説の文庫本が出てきた。

そういえばこの間の休日に、カフェで読み返そうと思って持っていったのに、スマホをいじっているうちにお迎えの時間になってしまって、けっきょく読めなかったんだっけ。ラッキー。


小説の世界の中に、どっぷり浸かる。

ハッとして、
カフェの壁にかかっている時計を見る。

ホッとして、また小説の世界に戻る。

ハッとして、
息子を迎えにいくためにカフェを出た。



スマホのない世界で、そんなふうにして過ごした休日。今思い返してみると、なんだか全部がめんどくさくて、無駄な時間が多くて、そして全部が美しかった。

いつもより世界が立体的で
いつもより匂いや味が濃ゆくて
いつもより音がはっきりしていて
いつもより色が鮮やかで
いつもより頭が静かで
いつもより時間がゆっくり流れていって

ちゃんと地球でどっしりと、根をはって生きているような感じがした。

地球の楽しさや美しさを100%味わうためにはきっと、ある程度の「めんどくさい」や「無駄」は必要なんだろうなと、なんとなく思った。


電車の中で、流れていく外の景色をボンヤリと眺めていた時、ふと電車の中に視線を戻した瞬間があった。

車内はわりと空いていて、全員が座席に座っていたのだけれど、見事に全員が首を下に向けてスマホを見ていた。その光景に、一瞬ギョッとした。

みんな同じ電車に乗っていることは確かだけれど。この電車にいっしょに乗っているのは体だけで、心はそれぞれの"小さな画面"の中にいる。心は全員ちがう場所にいる。

今、小さな画面を持っていない私は、今日はたまたま体も心も電車の中にいるけれど。

いつもは私も、体のいる場所と心のいる場所が別々になっていることが多いんだ。

そのことにふと気づいた。



スマホは便利でスムーズでスマートで、ワンクリックでおもしろいことを次々と提供してくれる。スマホさえあれば「ひまな時間」なんてきっと訪れはしないから「ひまつぶし」なんて言葉も今後はなくなってしまうのかもしれない。

スマホがない時代に戻ることなんてもう考えられないし、手放す必要なんてないとは思う。

でもうっかりスマホを忘れて、不便で面倒な"現実の世界"に、体も心もどっしりと根づかせてみると、気づくことがあった。


私が1番大切にしたいことは何なのか。

音があって、
匂いがあって、
味があって、
手でいろんな物に触れられて、
体でいろんな感覚を感じられて、
心でいろんな気持ちを感じられる、

そんな地球で生きるたった数十年を、
存分に味わうこと。


私が1番大切にしたいのは、
そんなことなのだ。


スマホはなんだって知っている。なんだって教えてくれる。ワンクリックで私を楽しませてくれる。だけど、スマホではどうしてもできないことがある。それが私の1番大切にしたいこと。

スマホで遊ぶために、地球にやってきたわけではないはずだ。

当たり前のことかもしれないけれど、そのことだけは忘れずにいようと、グッと心に刻んだ。



先日、大阪から三重県まで、お墓参りに行った。電車に1時間半以上も乗るのは久しぶりだった。

私と父ちゃんと息子。
父ちゃん側の、お母さんとお父さん。
そして、おばあちゃん。

6人で電車にゆられ、お墓に向かった。

行きの電車では、私は息子とスマホを使って写真を撮ったり、その写真に落書きをしてゲヘヘと笑い合った。まだひらがなを読めない息子は、Googleの音声機能を使って、「変な虫〜!」とか「かわいい動物〜!」なんて言いながら検索して、表示された写真を眺めては「見て見て〜!」と私に見せながら笑った。

帰りの電車では、息子はニンテンドースイッチでゲームをしていた。

父ちゃんは寝ていて、お母さんとお父さんはスマホをいじっていた。

ふと、窓際に座っているおばあちゃんの方を見てみると、おばあちゃんは窓の外を眺めていた。口の両端がほんの少しだけあがっているように見えて、なんだか楽しそうに見えた。

その姿をみるとなんだかハッとして、私は開きかけていたスマホをリュックにしまった。

私も窓際の席に座っていたので、おばあちゃんの真似をして、窓の外を眺めてみた。田んぼが永遠と広がっている。山が永遠と続いている。


退屈なような気もする。

いますぐスマホを取り出して、何か刺激的でおもしろいものを見たり読んだりしたいような気もする。


でもなぜか、私の体と私の心が、妙に喜んでいるような気がするのは気のせいだろうか。

頭も心も妙に静かで、ただ"ココにいる"ということを楽しんでいるような気がするのだって、気のせいなのかもしれない。


この感覚。
この静けさ。

体と心が同じ場所にいるという、どっしり感。

これが今流行りの「デジタルデトックス」の効果効能なのかもしれないなぁ・・・

そんなことをボンヤリ考えていると、いつのまにか寝落ちてしまったけれど。


うっかりスマホを忘れて過ごした1日は、私に大切なことを思い出させてくれたような気がしてならない。

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