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毎日365日、息子へプレゼントを贈る。

大好きな整体師の先生から、誕生日プレゼントをもらった。

お客さんとしてその整体に通っているのと同時に、その先生から月に1回整体の技術を教えてもらっているので、「私の師匠」でもある人だ。

師匠と出会って、まだ1年足らず。

月に2回ほど会うだけだけど、会うたびに「すごいなぁ」「素敵だなぁ」「大好きだなぁ」「私もあんなふうになりたいなぁ」と心の底から思う。


私の10歩先を歩いている人。
私の「あこがれの人」。

そんな存在の方から、誕生日の2週間前にもらったプレゼントは予想外で、もう飛び上がるくらいにうれしかった。

師匠からプレゼントをもらった帰り道、原付きのハンドルにその手提げ袋をぶらさげて、家に向かってアクセルを回す。

フワフワした気持ち。

どうしてこんなにうれしいんだろう。


もちろん、プレゼントその物もうれしい。大好きな無印の商品、もらってうれしくないはずがない。


ポンッと師匠の顔が、頭に浮かぶ。

まず、私の誕生日をどうやって知ってくれたんだろう。初回に書いたカルテを見たときに、覚えてくれていたのかな。もしくは、LINEやインスタなどに誕生日を表示させていたっけ?

師匠が私のカルテを見てくれている姿や、
LINEやインスタの私のページを見てくれている姿を思い浮かべる。


私にプレゼントをあげようと思った瞬間、
プレゼントを選んでいるときの時間、

少なくとも"その瞬間"と"その時間"は、
師匠の頭の中に「私」はいた。

そのことを思うと、なんだか胸がキュンッとした。


会っていないときに、大好きな人の頭の中に自分がいるということ。

それはなんてうれしいことなんだろう。

何をもらうかはそこまで関係ないのかもしれない。そもそも大人になって働いている今、欲しい物のほとんどは自分で買えてしまうもの。

プレゼントをもらってこんなにも嬉しいのは、「その人が自分のために使ってくれた時間」を想像できるからかもしれないな、と思った。



「もよー!誕生日さ、なんかほしいものある?」

父ちゃんが私にたずねる。

「いや、特に。ケーキ食べよ、ケーキ。」

「何ケーキがいい?」

「タルトがいい。」

父ちゃんとそんな会話を交わした。その会話のとおり、父ちゃんはタルトを買ってきてくれて、家族3人でケーキを食べてお祝いをした。美味しかったし楽しかった。

それはそれでオッケーなのだけれど。



父ちゃんはサボっている。

私が何をもらったらうれしいかな、
と考える時間を。

私がどんなケーキを食べたいかな、
と考える時間を。

もらうものなんて、
どんな小さくて安いものでもいいから、
どんな種類のケーキでもいいから、

頭の中に私を思い浮かべる時間を作ってくれることが、それを想像できることが、私は1番うれしいんだけどな、と心の中でつぶやいた。


何度かそんなようなことを父ちゃんに伝えてみたことがある。自分がどんなことに心が動くのかを伝えることも大事だと思ったからだ。でも、私のこの感覚はいまいち伝わっていないような気がする。

でも父ちゃんは父ちゃんなりに、毎年誕生日を祝ってくれているから、それはそれで良しとしよう。

「自分がしてもらってうれしいこと」も人それぞれだよね、と思う。ほしいものを的確に伝えて、今1番ほしいものをもらった方がうれしい人だってきっと多いだろう。確かにそのほうがお金的にも時間的にも効率的だ。

だれかを喜ばせようとするとき、「自分がしてもらってうれしいこと」を基準に決めるものだと思うから、お祝いのやり方だって人それぞれだ。




誕生日の近い友達と、「真ん中バースデー」をした。

昔読んだ"こどものおもちゃ"という漫画の中で、主人公のさなちゃんとボーイフレンドの羽山がお互いの誕生日のちょうど真ん中の日に、プレゼント交換をするというシーンがある。

その話をしているときに、「私たちもソレやろうよ!」となったような気がするのだけれど、だいぶ前のことなのでナリユキは覚えていない。

2000円足らずの「小さなプレゼント」というのが条件。

「自分ではあえて買わないけれど、もらったらすごくうれしいもの。」私は誰かにプレゼントするとき、それを意識して選ぶようにしている。

たくさん考えて考えて、私は友達に「サンキャッチャー」をプレゼントした。友達は私に「肉球コップ」をプレゼントしてくれた。

か、かわいい・・・


プレゼントを何にしようかと考えているとき、頭の中はその友達のことでいっぱいになっていた。その友達との思い出やら、その友達が言っていた言葉などが、どんどんどんどんよみがえってくる。

その思い出や言葉のカケラを集めながら、アレはどうかな?コレは喜んでくれるかな?と、プレゼントを選んでいく。

その子との付き合いが長ければ長いほど、深ければ深いほど、プレゼントしたいものがたくさん湧いてくる。

「あなたと私の思い出」と「私はあなたのことが大事だよ、という気持ち」をギュッと凝縮して、物にそれらを託すかのような時間だな、と思った。



その少しあとに、また別の友達からプレゼントをもらった。

肉球コップが2個に増えたのだ。

包装紙を開けたとき、まさか!と思った。数え切れない商品のある日本の中で、同じ時期に同じ商品を選ぶだなんて、奇跡に近い。


「母ちゃん、このコップでいっしょにカルピス飲もうよ!」

お風呂あがり、裸ん坊の息子が、両手に肉球コップを持って私を誘った。

2つの肉球コップそれぞれにカルピスを注ぎ、並んでソファに座ってグビグビとそれらを飲み干した。

「お風呂あがりのカルピスって最高やな。このコップ、コメとムギがまざってる柄みたいでカワイイね。」

(こめ&むぎの色はこんなかんじ。たしかに!)


息子がコメをなでながら、そう言った。

これからも、この肉球コップたちで飲み物を飲んでいるとき、ふとそのプレゼントがかぶった奇跡を思い出すだろう。そして時に、息子と同じコップで飲んだカルピスの味だって思い出すだろう。

そしてその肉球コップたちには、友達2人が“私を想いながら使った時間”だって、ギュッとつまっている。

こんな愛おしいプレゼント、
他にあるだろうか。



私が本当の本当に欲しいものは、
きっといつだって、
「目に見えないもの」なんだと思うのだ。

思い出とか、友情とか、愛情とか、信頼関係とか、そういったアヤフヤで温かいもの。

アヤフヤで、わかりづらすぎるから

「目に見える形」に乗せて
その気持ちを、相手に伝える。

それがプレゼント。



ある日、晩ごはんの献立を考えていた。

今日は息子が大好きな天津飯にしようか。少食&偏食の息子だけど、天津飯の日はたくさん食べてくれる。そして、食べ終わるのが異様に早い。私も楽だ。

でもこの間食べたばかりだしな。私は今日はサバが食べたい気分。でも息子はきっとションボリするだろうなぁ。

ニコニコしながら天津飯をほおばる息子や、死んだような目でサバを食べる息子の顔が頭に真ん中に浮かんでくる。

やっぱり天津飯にしようか!

父ちゃんは天津飯イヤじゃないかな?父ちゃんは何でもおいしく食べてくれるから大丈夫か!


そんなことを考えていると、ふと「プレゼント」という言葉が頭に浮かんできた。

献立を考えている時間中、
私の頭には「息子」と「父ちゃん」がいた。

おいしいものがいいよね。
好きなものが嬉しいよね。
でも栄養も大事だよね。
元気でいてほしいからね。

そんな気持ちを料理にギュッと込めて、
毎日毎日ごはんをつくる。


"毎日のごはん"は、
私から家族への「プレゼント」みたい。

そんなことを考えながら作ったその日のごはんは、きっといつもよりもほんの少しだけ、おいしかったにちがいない。



きっと"ごはん"だけじゃない。

お母さんの頭の中には、
いつもわが子がいる。

わが子のことを考えながら、数え切れない小さな小さなことを積み重ねる。

お母さんの手が触れたすべての物に、「あなたのことを想っているよ」「あなたのことが大事だよ」という気持ちが込められていく。



「プレゼントみたい」だということさえ
忘れてしまう日がほとんどだけれど

すべてのお母さんは、
今日もせっせとわが子にプレゼントを贈っている。

そう思うと、毎日毎日容赦なく押し寄せてくる家事をバタバタとこなす手が、ほんのちょっとだけフワリと温かく優しくなるような気がした。

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