5歳息子に「生理について」説明してみた結果。
平日は毎日一緒にお風呂に入る、私と息子。
そして土日は、私と息子と父ちゃん3人でお風呂に入る。
でも例外の日もある。
私が「生理」の日だ。
平日に生理がかぶるともう仕方がないので、お風呂の前にトイレに行って、できるだけ血を絞り出してからお風呂に向かう。お股にギュッと力を入れていれば、15分くらいなら大丈夫だ。注意するべきタイミングは、湯船からでる瞬間。水圧から解放されたお股から、うっかり血が出てしまうことが何度かあったので、それ以降は手でお股を抑えながら湯船から出るようにしている。
そんなこんなで、なんとなく息子を急かすようにお風呂に入ってしまう生理中。でもそれは仕方のないことだと思っていた。息子に血を見られるのは、やっぱり抵抗がある。
でも父ちゃんに血を見られるのは、もっとイヤだった。
だから、土日のお風呂と生理がかぶったら、2人で入ってもらうようにしていた。
「今日は父ちゃんと2人でお風呂入ってね」
「なんで?3人で入りたい。」
「母ちゃん、今日は1人で入りたい気分やねん。」
「えー・・・」
しょんぼりする息子。不服そうな顔をしている。そりゃ「1人で入りたい気分」なんて言われたら、なんだかちょっぴり寂しい気持ちにもなるだろう。
そんなある日。
その日は仕事で、お客さんがたくさん来てくれた。90分の施術を、ほぼぶっ続けで3人対応した。
達成感とともに押し寄せる、体の疲れ。
生理2日目だったので、独特の腰の重さもある。
そんな中、息子を幼稚園に迎えにいく。
家に帰ってすぐにお風呂をわかした。
「ああ、1人でゆっくりお風呂に入りたい・・・」
そんな気持ちが自然と湧いてきてしまった。
でも今日は平日。父ちゃんはいないし、息子は1人でお風呂に入ったことがない。
せめて私が体を洗い終わるまで、リビングで待っていてくれないだろうか。
「りんりん・・・今日はさ、母ちゃんが体を洗い終わってからお風呂に来てくれない?洗い終わったら、呼ぶからさ。」
「なんで?」
「母ちゃんさ・・・今日は血が出る日やねん。」
あまりにヘトヘトだったからだろうか。もう頭でいろいろ考える力が残っておらず、ありのまますぎるくらいに"ありのままの事実"を、5歳の息子に伝えてしまった。
「え?母ちゃん大丈夫?どこから血が出てるの?」
「おまた。」
「おまた!?」
息子は目を見開いて、私のお股に目を向けた。
「大丈夫。女の人は大人になって赤ちゃんが生める体になったらね、1ヶ月に1回お股から血が出るようになるねん。」
「そうなの?」
「うん。だから大丈夫やねんけど、血が出てる間はさ、体もしんどいし、お股もしっかり洗いたいし、1人でゆっくりお風呂に入りたい気分になるんよね。」
「そうなんか。わかった!」
息子は案外すんなり納得してくれた。こんなことなら、もっと早くに"ありのまま"を伝えておけばよかった。
1人でゆったり体を洗って、呼び出しボタンで息子を呼んだ。いつも「服ぬがせて〜服ぬぐのめんどくさい〜」と脱衣所でダラダラしている息子が、自分でササッと服を脱いで、お風呂に入ってきてくれた。
息子なりに、"お股から血が出る日"の母ちゃんを気づかってくれているのだろうか。
息子の体を洗って、2人で湯船につかった。ジワジワと体の緊張がほどけていく。
そんな中、息子が口をひらいた。
「赤ちゃんが生めるようになった女の人は、なんでお股から血がでるの?」
「お股には穴があってね、そこの穴の奥には子宮っていう部屋があってね。りんりんも子宮にいたんだよ。」
「しきゅー?そうなのー?」
「うん。赤ちゃんを育てる部屋ね。1ヶ月に1回、その部屋に卵がポーン!ってやってくるのね。そのタイミングで男の人がもっているタネが子宮にやってきて、卵とタネが合体したら赤ちゃんができるねん。」
「へ〜!!」
「赤ちゃんができたときのために、その部屋の壁も厚く厚くしておいてね、赤ちゃんを守るための準備もするねん。でもタネがやってこなかったり、卵とタネがうまく合体しなかったら、その部屋の壁はもういらないやろ?その壁がはがれて、お股を通って外に出ていくねん。それが血みたいに見えるの。」
「そうなんか〜!」
そんなような会話をした。ジェスチャー付きで、できるだけ息子にもわかる言葉を使うように心がけたけれど。なんだかすごく興味深そうな目で聞いてくれているけれど。
今の説明で、"生理の仕組み"をどのくらい理解できたのだろうか。
きっと"ふんわり"とイメージができるくらいで、ほとんど理解できていないんだろうなぁと思った。
息子はだまっている。
息子がだまっているときは、"考えているとき"だ。
小さな小さな頭の中で、いったいどんな映像が繰り広げられているんだろう。息子の頭の中の映像をスクリーンに映して見ることができたらいいのに、と思った。
まぁ"ふんわり"わかってくれていればいい。それにしても、今度から生理中のお風呂が楽になるな。「母ちゃん今日血がでる日だからね」って伝えれば、平日なら後からお風呂に入ってきてくれるだろうし、土日なら納得して父ちゃんと2人で入ってくれるだろう。
"うっかり"だったけれど、生理のことを話してしまってよかった。
そんなことを思いながら、呑気にお湯に浸かっていたのに。
次の瞬間、私はアタフタすることとなる。
「母ちゃん。それなら、ぼくは"母ちゃんの卵"と"父ちゃんのタネ"が合体してできたってことだよね。父ちゃんのタネは母ちゃんの子宮に、どうやって入ってくるの?」
そ・・・それは・・・
セックス。
性行為。
えっち。
まぐわい。
交わり。
愛し合う。
寝る。
いろんな単語が、私の頭の中で飛び交う。
でもどの単語も、5歳の息子に伝えるにはしっくりこない。
5歳にわかる言葉で伝えるならば、「タネはおちんちんから出るんだよ〜♪父ちゃんのおちんちんを母ちゃんの穴に入れて、タネを入れるんだよ〜♪」なんだろうけれど。
その映像が、息子の頭の中で繰り広げられるのだとしたら、そんなの恥ずかしすぎる。恥ずかしすぎる。
「う〜ん。説明するのめっちゃむずかしいわ。りんりんがもうちょっと大人になったら話すね。さ!そろそろお風呂あがろうか!」
説明するはとっても簡単なことだけど
ちょっぴりウソをついてサラッと逃げる母。
それ以上何も言わない息子。
とりあえず、この件は"保留"ということで。
夜ごはんを作りながら、"生理"に関する思い出がたくさん頭の中に浮かんできた。
私は小学校6年生になる春に生理が来て、その日の晩ごはんは"赤飯"だった。
「なんで今日は赤飯なの?」と質問する弟。母と祖母は「なんでだろうねぇ」としらばっくれていた。
私がうっかりトイレに血をつけて、それに気づかずにトイレから出てしまった時。
そのあとにトイレに入った弟が「ママー!トイレに血がついてる!」と大騒ぎしていた。
母は「パパの痔かな?」とごまかしていた。
そのあと父と口裏を合わせて、弟が「トイレに血がついてたけど、パパの痔?」と聞いたとき、「そうだよ」と答えてくれていた父。
生理は、隠さないといけないもの。
生理は、恥ずかしいもの。
そんな気持ちが、私の中には根付いていた。
でもよく考えたら、
生理はただの"体の仕組み"だ。
何も恥ずかしいことではないよね。
隠すことでもないよね。
そんな風に感じた。
お母さんが隠さず、恥ずかしがらずに、
サラッと生理のことを子供に話すことができたのなら。
きっと子供は"生理"を"体の仕組み"として
理解していくような気がする。
私は息子にそうできたらいいな、と思うけれど、「父ちゃんのタネを、母ちゃんの子宮に入れる方法」についてはサラッと話せなかった。
サラッと話していいものなのか。
どうなのだろうか。
その部分の課題は残る。
生理
セックス
たった2文字の、たった4文字の、
その単語の背景に
たとえば"恥じらい"とか"後ろめたさ"などの
深い影のようなものを、無意識のうちに感じてしまうのはなぜだろう。
それは私の育った環境の影響かもしれないし、もしくは「日本の性教育」の影響かもしれないし、「日本の文化」の影響かもしれないし、さらにそれ以上に「男女差別」が色濃かった時代の影響かもしれない。
それらの深い影を完全になくすには
時間がかかるかもしれないけれど
「あれ?なんで隠さないといけないんだろう?なんで恥ずかしがらないといけないんだろう?」
そんな疑問をもってみることで
少しずつ少しずつ、影は薄くなっていくような気がする。
noteという開かれた場所で、
こんな風に文章を書くことに抵抗がなくなっているということが、影が薄くなってきている何よりの証拠かもしれない。
最近は「子供の性教育」の本もいろいろ出ているみたいだし、そういう本も近々読んでみようかな、と思った。
息子にうっかり生理のことを話した結果。
また1つ、無意識に握りしめていたオモリを手放せたような気がしている。
そしてこれからも1つ1つ、もう必要のないオモリを手放していけたなら。
私が軽くなればなるほど、
私の息子、そしてその子供、その子供の子供・・・
そのつながりの中で、どんどんどんどん軽くなっていく循環が生まれるような気がしている。