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日記的な記事を、多くの人に読んでもらうための工夫(1)

瀋陽日記を書こうと決めたのですが、10年前にブログで同じようにその新鮮な驚きを綴っていたことがあります。

(続・瀋陽日記はインスタでコツコツ更新中・・)


さて、ブログは今読み返すと、今はなき中国のナツい姿、日本人であることをから逃れられずに狭い視点で物事を解釈しようとしていた浅はかな自分に、今となっては気付かされます。

それでも、また「日記を綴ろう」と思うのは、やはり今の自分を記録しておきたいとか、中国生活を面白がりたいとかいう、個人的な欲求が沸き起こるからなのです。自分が今、体験していることを俯瞰したい、というようなことでしょうか。

でも、以前と同じようにこれを見て「驚いた!」あれ体験して「面白い!」などとただ反応して綴っても、つまんないなあと思ったのです。

それだとなんというか、同じことやってる・・・って感じがするし、中国ももうそこまで、”以前のような”「おもしろ」がなくなってきているように思える。

それに、来てみて思いますが、コロナ後オンラインで大体の情報が得られるようになった以上、外国人という立ち位置で経験してるってことは、現地の人にとっても私にとっても大して新鮮な驚きがない、というのが現実です。

日記はとても書きやすいです。あまり考えずに、自分の心に依拠して、見たもの、体験したことを自由に綴れるからです。

けれども、それをブログなり、noteなりで、みんなに読んでもらうものにするのであれば、それなりの工夫が必要です。

ネット民は世界中にいるけれど、彼らの目と指を止めるのはなかなかハードなこと。

個人的な出来事の忘備録、のようなものでありながら、知らん人が読んでもおもしろいと思えるように書くのであれば、

日記を書く、とは一体どういうことなんだろうか。読まれるためには、一体何が必要なんだろうか、自分はどんなことに気を付けているだろうか。

そんなことを考えてみましたので、よかったらご参考ください。

***

まずは前提として3つ。

一つ目、日記でありながらフィクションであるという意識を持つこと、です。

マインドに近い話ですが、

事実を正確に綴った日記は、とても日記らしいけれど、70億人分の日常がある中で、たった一人の日常が意味を持つには、

ストーリーが必要だと私は常々感じています。

些細な、なんてことない、誰かからしたら「どうでもいい」ことかもしれない時間が意味をもつためには、ただ、こんなことがあった、こういうものを見た、と綴るのでは不十分です。

読者はとっても飽きやすいし、そもそも私に付き合う義務がないからです。

ストーリーというと難しく感じるかもしれないけれど、日記を公に晒している以上、それは、書き手の主観に基づいたフィクションである、という意識を持つことは、なんだかとっても大切な気がしています。

うむ、私にはこう見えたぞ。あれ、こういうことかな?

という偏った解釈に基づいて、日常を綴っているんです。それが、真実なわけでも、正しいわけでもない。ただ、自分の視界に入ったもの、アンテナに触れたものを、両手で包むように大切にしたい。それだけのことのはずなのです。

また、そもそも読者はその場で同じ体験をしていないのだから、いいね!や共感を求めるのって、、むずくない?

読者と<何ごとか>を共有したいのであれば、日記を、日記というものから、少し脱皮させる必要があります。

日記によって何かを主張しようとすることでも、正しさを証明しようとするのでもなく、

必要なのは、あくまでも、私はこれから日常に起こった出来事を通して、私の主観を曝け出すのだ、と意識することだと思います。

二つ目、その上で、リアルさを追求する、ということです。


かといって、日記の書き初めに「この日記はフィクションです」なんて書いてあったら、読者は秒で引きます。矛盾するようですが、日記を読む人はそこにある「リアル」さに価値を見出すものだとも思います。

本当にそんなことがあったのか。続きはどうなったんだ。文字から伝わる、その人の地続きの体験が、気になるから日記を読んでしまう。

リアルは、正解や正しさの中にはありません。
それよりも、見えたものの色、形、感触、匂い。細部にやどります。

私は日記を書くとき、今日一番伝えたい日常に、脚本を加えたショートムービーのようなものだと思って書いているな、と感じます(自分自身の感触です)。

感情は共有できないけれど、物理的なもの、自然の真理、どこに行っても誰がみても、「存在する」と思えるものは、みんなと共有ができます。

そこが、日記を共有する手がかりになるし、読んでもらえるフックになる。

だからこそですが、日常をどれだけ具体的に、細かく言葉にできるかって、やっぱりとても大切なんだと思うんです。

嬉しい、悲しい、イラつく、など、どれだけ感情的な言葉を増やしても、それで共有できるのは自分のことを知ってるごく数名の友人知人でしょう。(→その範囲で公開したい、共有したいのであればそれで十分)

でも、雪が降ったときの形状、息の曇り方、人や自然の気配、、そういう細かなリアルをどれだけ表現できるかって、実は、ネットワークの幅を広げたり、自分を違うフィールドで知ってもらったり、という意味でも、すごく重要な気がしています。

(自分のことは完全に棚に上げて、書いております)

そして三つ目に、日記を通して、読み手へ何かしらを手渡したい、

と思っています。

せっかく時間を使って読んでもらうのだから、というのは単なる私の願望でもあります。

別に、ノウハウでなくても、実用性の高い情報でなくてもいい。もしかしたら、リアルな描写の中に驚きがあるかもしれないし、読了後の心の琴線に触れる何かかもしれない。

書き手が、読み終わった時に「ここは伝えたい(手渡したい)!」と思っているものであれば、なんでもいいと思います。

そういう読者へのおもてなしの気持ちって、内容うんぬんより伝わるんだよなー。

最近のSNSには、フォロワー増やすためのテクニックや読ませる仕掛けもたくさんあります。今更、テキストに頼らず動画撮った方が早いという身も蓋もない意見もあります。

確かに、その通りにやれば、何かしらの成果も出るのですし、目的によって日記も活用されていいと思います。

でも、日記って、プライベートやん?
個人的な情報はもちろん、なんか、心を晒すようなこともあって、結構勇気いることあるやん? 

そうしたくなければ書かなくてもいい自由があるのも日記だけど、日記って結局、「誰が綴っているか」が一番ものをいうものだと思いますし、

自分のまま飾らずに綴るというフィールドで、自分のテキストが読まれていく体験をするのは、とても心地の良いことではないかと、小心者の私なんかは思います。

むやみに読者を惹きつけるのではなくて、無理のない自分で知らない誰かと出会っていきたい、というのを一番叶えてくれるのが、日記という書き物。

だから、私は今も、自分の名前で、ただただ主観を綴ることを、完全に手放そうとは思っていないのかもしれません。

(続く)


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