「これが松本人志だ!」スラヴォイ・ジジェク分析

「すべてを真実などと考えてはいけない。必然なのだと考えなければいけないのだ」
「気の滅入るような結論ですね」
「虚偽が普遍原理にされているんだから」

カフカ「審判」


 嘘つきがあいつは嘘つきだと言う。「声」は最もクリーンで透明な「完全犯罪」を完遂できる殺人兵器である。声は「声にならない声」をも奪い亡き声とする「口封じ」の媒体メディア。身体的口封じを殺人、そして「声」による心理的な口封じを「魂の殺人」という。松本人志さんに対するあまりに過熱した報道への「広島マツダ」松田哲也会長よりの批判に「吐きそう」「おそろしいものを読んだ」などの批判が浴びせられている。「声」さえ自由に「出せない時代」になったのだ。
 
 「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで」に腹を抱えてどれほど大声で笑ったことだろう。そんな笑いも今では過去のもの、「ガキ使」は今では虐待への心理的影響でも省みられたのか?番組は終了した。こどもたちが「消したらあかんで」と何年分も保存している「ガキ使」を「思い出」に浸って視聴するのは不謹慎なことだろうか?松本の笑いが子どもたちの笑い、年末年始の歴史だったからだ。「未来は他の門から入りたる別の過去」ともいうが(ピネロ)シューマンのユーモレスクで声が次第にフェイドアウトし消え去ったようにこのままいくと松本人志の「笑い」の歴史まで変えられてしまわれそうな勢いだ。「愚か者は大声で笑う」(旧約聖書 シラ書)そうだが集団ヒステリーよりはましだ。フロイトはこれを声の共鳴が生成する社会ヒステリー現象=「思い出を病む病気」と呼ぶ。(ヒステリー研究)ジャニーズを追っかけた青春の思い出も皆様は笑顔でそっと見送れただろうか?
 
 笑いは、しかし、ネガティブな感情より伝染しにくく、中世までは歴史的にも肯定的に捉えられて来なかった。そして「恥辱だけ」がしぶとく「生き延びるように思われる」のは何故だろうか(カフカ「審判」最後の言葉)アリストテレスの「詩学第二部」は笑いの効用に言及し禁書とされた。快楽の身振りたる笑いが神への恐れを薄れさせてしまうとしてページに毒を塗り、笑いを肯定する「愚か者」は皆、死んだ。これはもちろん有名なウンベルト・エーコの「薔薇の名前」の物語である。しかし実際にも中世までの絵画や彫刻物において「微笑み」は見られても、「笑い」はないことに気付いた方も多かろう。聖母は慎み深く微笑んでもガハガハ笑わない。笑いを肯定する書物は人間中心主義のルネサンスのカスティリオーネまで待たねばならなかったのだ。
 
 でもなんだか現代日本は中世までタイムスリップしたかのようだ。透明な権力に守られ、純潔を暴力的に主張する敬虔な修道士や奥ゆかしい修道女たちがヴァーチャルで透明なメディア=「声」で社会を痙攣させているからだ。その姿はまるで母親の羊膜役を務めるヴェルギリウスにしがみつきながら人びとを次々と地獄へと裁いていったダンテの「神曲」のようだ。そして、ヒトラーが何度も同じスピーチを反復したように、報道も繰り返されると大衆の形態共鳴が引き起こされ真実が定かではなくなる。「何も言えない今の世界こそ嘘だらけのよう」だ。松田会長は正しい。声は声で声を奪う。これを「嘘」=大衆のアヘン、マルクスは宗教=イデオロギーをそう呼んだ。
 
 「これはリンゴだ」と皆が声高に叫べばこれはリンゴに「なる」のが民主主義のよいところであり、ケインズが市場を動かす「声」に着目し社会心理学的経済学の書物を出版したのも納得できる。トイレットペーパーがなくなる!人びとが信じさえすればそれは本当になくなり真実となる。困るのは噂話を一蹴し真実「トイレットペーパーはなくならない」に固執した人。声はマーケットをも暴落させ「リンゴではない」ものもリンゴに「する」のだ!(ジジェク 「イデオロギーの崇高な対象」345)
 
 「これはりんごではない」と書かれたリンゴの絵。 観念表象=虚像なのだから「りんご」ではない。「習慣の力」というルネ・マグリットによるりんごの絵はポール・マッカートニーも愛し、いまやビートルズのsymbolとも言える表象。「青いリンゴ」=青年4人を想起する者もいれば、青いリンゴ=「野口五郎」と同一視したり「不在の表象」たる言葉とは無制限に恣意的だ。「馬」を「ドア」と命名したり、「花瓶」を「鳥」と呼んだり。「そんなバカな」と思われるかもしれないが、これが言葉の犯している日常の犯罪。デリダによると言葉は「盗む」媒体なのだ。たばこを詰めることができないパイプの絵を見て「これはパイプである」と書いたとすればそれは嘘になるとマグリット自身が言っている。(Torczyner, Harry, Margritte: ideas and Images 71)
 
 われわれは日々、「パイプ」(実像)を「これはパイプでない」と言ったり、「これはパイプではない」というパイプの絵(虚像)を見て「なんでパイプでないのか」と言っている。我々は松本人志さんという人の「名を奪い」「偽(非)松本人志」と別「名を与え」松本人志以上の松本人志=非存在を世間に拡散している可能性はないのだろうか。「月」=「ハイヒール」、「空」=「カバン」、「葉っぱ」の絵を「机」とマグリットが名づけるのはそれが我々の言語「習慣」だからだ。確かに「月」の「絵」は月「ではない」。だからハイヒールと名付ける余地が残されている。
 
 このように「病んでいる自然」たる人間は言葉という媒介によって世界を「事物の死」へと追いやっている。(ヘーゲル)「事物」はその名において言葉が発せられた途端に「殺される」。つまり、我々が「これは象だ」「これが松本人志だ」と言う時、象や松本人志は「既に死んでいる」。それはもう「象」「松本人志」という「音」「声」に過ぎず、その「声」によっ生物の本来存在の現前性が棚上げされ「音」に還元されてしまう。我々が「松本人志」について語るたび我々は松本人志さんに盗みを働き、彼を日々殺しているということになる。(仮想化しきれない残余242)

我々がロバを見たり、触れたり…するかぎり、我々自身が直接ロバと一体となっており、ロバの表象で満たされるのである。しかしその対象から離れることによって名称としてその対象が残されることとなり、ロバと言う名称は精神的なもの、感覚的な対象とは全く異なる、あるものである

ヘーゲル イエナ精神哲学1-a

 「動物から人間への移行」そのプロセスが「『自然』な関係に対する根源的な転倒」を含み「無邪気」に「ろば」は「ろば」でいられなくなったのだ。(ヘーゲル「宗教哲学講義」;「否定的なもののもとへの滞留」187)精神は「像」の支配者。言語とは「名称を付与する力」であり、ロバとは「名称の国」で「私の名づけたロバという精神」に過ぎない。(ヘーゲル 同上1-a)ならば、パンダはパンダでないもの=否定の無限の可能性を秘めている。パンダ、ウサギ、コアラ3人が社会契約を結んだ時に「名称の国」で起きることを考えてみよう。
 
パンダが思うウサギ=パンダ  ウサギが思うパンダ=ウサギ
パンダが思うコアラ=パンダ  コアラが思うパンダ=コアラ
ウサギが思うコアラ=ウサギ  コアラが思うウサギ=コアラ

 パンダ、ウサギ、コアラはこのように言葉で共食いし合い「非存在」=ヴァーチャル「パンダ」、「ウサギ」、「コアラ」として新たな名を与えられる。これがデカルト的主体であり「我思う」がヴィトゲンシュタインのいう「世界の限界」、パンダにはパンダ以上・以下の思考はできずパンダ以外には見えない。ウサギが泣いて「私はウサギだ!」と叫んでも、それは「声なき声」誰にも聞いてもらえないのだ。これをトラウマと言う。赤ずきんちゃんはオオカミに食べられたらオオカミとして生きざるを得ないのだ。誰の目にも赤ずきんは見えないからである。
 
 ポール・マッカートニーの「丘の上の愚か者」(Fool on the Hill)のようなタガの外れた目にだけは太陽が昇るのでなく自分(地球)が沈んだのだと反転した世界が見えている。2600年ほど前のギリシャの哲学者アナクシマンドロスは地球が宙に浮いていることを知っており当時このように言った。

 事物は必要に応じて、ほかのものに変わる

アナクシマンドロス

 

 このように声(音)は事物に寄生し事物のオリジナリティを殺す。チャップリンは無声映画からトーキーへの過渡期に於て「声」が外から侵入してトラウマの原因となり得ることを知っていたという。(幻想の感染197)トラウマとは声に寄生されて(口封じ)声を失った「声なき声」の「喪失の喪失」「忘却の忘却」。同じ報道を聞きすぎると真実を喪失している意識すら喪失する。真実は真実過ぎて真実として否定され誤謬を通してしか真理に到達できないのだ。
 
 だから人は生生しい現実を夢に隠し、反対に夢を現実とする。「私は考える」のだ(デカルト)。普通の動物の中心性はこのように人間において「精神化」され転倒され、「無」「邪気」な「動物」から「人間への移行」は「邪(悪)」の形式をとり、否定そのものにポジティブな機能を与え反対物の形式をとろうとする。こうして「偽」「善」は言葉と言う媒体を通してアリスの世界のように主語と述語を転倒させ真実をあいまいにする効果を持つ架空のリアリティを作成する。(否定的188)つまり常にイデオロギーのうちにいるデカルト的人格は外的「存在を犠牲にして思考を選ぶ」のだ。(否定的127)
 
 そして、声とは「自分が考えているのが聞こえない」ようにするための役割をも果たす。「外に向かって」「自分が話しているのを聞く」(デリダ)というような「逆立ちした言説」(ラカン)=トラウマは反対物の一致(ヘーゲル)を生成しながらそれを知らない。嘘つきは正直者をも嘘つきと呼ぶも「自分が考えているのが聞こえない」。そして「偽証するおうむ」による偽証の反復が新しい鍵と鍵穴のセットを生み人工的「真実」を植え込まれたレプリカントが誕生する。(仮想化158)
 
 こうして自らの同一性を喪失した「脱中心的な」「斜線を魅かれた主体」(ラカン)=非存在はレプリカントとなり思い出や生き生きとした感覚、現実の深みそのものを失い「目隠し」をして「人工的」ヴァーチャル・リアリティに生きるようになる。ヴァーチャル・リアリティとはPC内にあるのではなく、ここにあるのだ。

 モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」は「機械的」に次々と生きた存在に寄生し植民地化していく「生きながら死んで」おり「死んでいながら生きて」いる極めて軽薄で人物としての深みに欠ける「機械的」トラウマ的主体。ヒトラーや毛沢東、プーチンなども彼等を「神」の様に崇拝する者がいなければ「非存在」=「無」かくして彼等は他者に寄生してのみ存在する非人間的生物なのだ。(シェリング 諸世界時代vol.1第2草稿)「ブレードランナー」においてレプリカントであるロイやKがデッカードを助け「消える媒介者」(ラカン)として極めて人間的な安らかな死を迎えたのと対照的と言える。人間とは「自分がレプリカントであることを知らないレプリカント」なのだ。(否定的 82)
 
 レプリカント=非存在とはこのように他者の媒体を通してのみ生きる没個性の寄生虫的存在。しかし、これは我々が「女に生まれるのではなく女になる」とのボーボワールの主張に同じことではなかろうか。「異性」とは決して「自分自身だけで完結する」ことはない「非存在性」。ラカンに依れば女が女としてのアイデンティティを完全実現できないのは男性の存在がゆえ、また男が男になるための自己実現を阻む存在も女性である。女は男を通して、男は女を通して反対物を通り抜けなければ自身の性を獲得できない。とどのつまり、ひとりでタンゴは踊れないのだ。(厄介なる主体2)
 
 なんて思っていたら、アメリカの人気ファミリーアニメ「シンプソンズ」でVR専用眼鏡をつけた夫婦が仲良く手をつないでベッドに横になっているではないか。仮想空間では互いに理想的にベッドでふるまってくれるので男には女、女には男ではなく、そしてまた男に男、女に女でもなくヴァーチャルリアリティを提供するPCが人間存在の「寄生的補完物」になりつつあるという。ゲームやAVに夢中になり過ぎて彼女に怒られた人はいなかろうか?フーコーが予言したように「性の終わりは地平に姿を見せつつあるのかもしれないし、PCはこの終わりに仕えているのかもしれない」(イデオロギーの崇高な対象90、仮想化288)
 
 そして「摩擦のない資本主義」とビル・ゲイツが呼ぶバーチャルな時代に終わりを迎えるのは「性」「差」だけではない。「差」「別」に潔癖なまでにポリティカル・コレクトネスを徹底することにより透明化したモラル・マジョリティによる左翼の保守化は差別からの社会的自由=平等を保障する強力な国家を支持する右翼的ポピュリズムを生み、右翼と左翼の反転が起きている。「差」の「異」としての認識=「差別」が「差」の「異」としての非認識=共感「同」に置き換わった時、それは民主主義における多数派を構成し、オートマチックな資本主義における駆動力ともなり、それ自体が社会主義を実現する要素を含んでいるとも言える。(シュンペーター)エッシャーの「上から下」が「下→上」に、天井と地面が反転し、田畑が鳥に変化する絶対主義的ディストピアは差別が解消され平和ボケするほどのユートピア世界なのだ。

  我々は皆、誰かの「消える媒介者」として「名」を奪われ「斜線をひかれた主体」として既に殺されている。愛とは自身が「持っていないものを与えること」なのだ(ラカン エクリ)「これが松本人志だ!」なんて神以外の我々にとっては笑い以外の何ものでもない。我々に「神曲」は描けず「人曲」しか作曲できまい。ボッカチオ「デカメロン」のように人の罪を笑いと涙で流せたらこの世は平和であろう。(デカメロンは神曲に比して人曲と比喩された)松本人志さんがどうたらこうたらという「アナグラム」遊びは辞めてラカンの問いに耳を傾けて見よう「汝 何を欲するか」なにゆえにあなたはわからない他人の批判に時間を割いているのだろうか。
 
松本人志さんの「持っているもの(自身の罪)」に責任は発生するが「持っていないもの(X=十字架)」にまで我々が言及しているのならば、我々はキリストを十字架にかけた「神」と同じ身分に自らを置いたことになる。ならばこの世は「インフェルノ(地獄)」ボッティチェリの「地獄の見取り図」のような吸引力をもつブラックホールを形成しているのは偽善=悪の言葉(音)の催眠術的磁力。偽善と知らずにsym(共に)ptom(引っ張られ)誤った方向性(関係性)に引っ張られることをフィジカルにもメンタルにも「症候」という。ダンテはまだニュートンに万有引力が発見されていない時代に悪の引力を感じていたのだ。真実は十字架に架けられた「死者の目を通してのみ見える」。我々には聞こえ過ぎて聞こえないのだ。(ダン・ブラウン「インフェルノ」)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?