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授業中にお腹が空いたらお弁当食べて良いだろうか➖ユクスキュルによると???

そこへの入り口となる扉が、ある種の確信によってあまりに堅く閉じられている

—ユクスキュル「生物から見た世界 」

タイトル上部の絵は
ハエが見た下記世界
某有名画家が書いたのではと思わせる世界だ

        ユクスキュル「生物から見た世界」

要するに
ハエと人間は理解し合えないほど
視空間が異なっている
ハエの再遠空間は50cmと言われ
見える世界も粗い。
ひととは住む世界が違う
ユクスキュルの著作を読むと
虫スプレーを噴霧するときにでも
その生き物の最遠空間(認識限界距離)内に入ってから
噴霧するのがフェアな闘いではなかろうか
と謙虚な気持ちになる。
ハエが視覚的に「見えない」距離で殺すなんて
ハエは
なんで自分が死んだかも理解できないではないか

6年ほど前か
子どもの学校の宿題で
他者から見た世界を漫画に描く
みたいなのがあって
我が家族は
他者を誰に設定するか
沸きに沸いた
結果
蚊から見える世界を漫画にした笑😆

ユクスキュルによる 
「生物から見た世界」は
ダニをはじめとする
多様な生き物の意味世界の解説絵本
定年退職の年齢(62歳)まで大学に職を得られなかった
夫の研究を
理解し、支え続けた奥様と息子さまの愛の結晶♡

1942年
戦時中の学徒動員で働いていた工場の休憩室で
日高敏隆くん=後の京大教授が手に取った一冊の本
神波比良夫訳による上記書
1934年 同盟国ドイツで出版されてからから8年…
現在流通しているユクスキュルは彼による新訳

これもご縁や因果というものなのだろう
同盟国でなかったら…
などなど考えると
フィリップ・ロスの
「プロット・アゲンスト・アメリカ 」や
フィリップ・K・ディックの「高い城の男」
の世界に入っていきそうなので辞めておく。

今西錦司が「生物の世界」
生物の群=種秩序=棲み分け理論を発表(1941)した
(「種の論理」の田辺元西田幾多郎等 京都学派興盛の時代) 1年後

日本語訳が発表されたユクスキュルの世界

今西のドイツ版?がユクスキュルで、
ユクスキュルのの日本版が今西
のようでもあるが、
今西の方が
としての秩序=に論点の重きを置き、
ユクスキュルは種間の意味の違いに
主点を置いている

あらゆる動物は、それぞれのまわりに、閉じたシャボン玉のようなものをもっていると想像していいだろう。そのシャボン玉は彼らの視空間を遮断し、主体の目に映るものすべてがそのなかに閉じこめられている。それぞれのシャボン玉は異なった場所に移ることができるとともに、それぞれには作用空間の方向平面が複数含まれていて、それらがその空間にしっかりした骨組を与えている。自在に飛びまわる鳥も、枝から枝へ走りまわるリスも、草地で草を食むウシもみな、空間を遮断するそれぞれのシャボン玉によって永遠に取り囲まれたままなのである。  みずからにこの事実をしっかり突きつけてみてはじめてわれわれは、われわれの世界にも一人一人を包みこんでいるシャボン玉があることを認識する。そうすると、わが隣人もみなシャボン玉に包まれているのが見えてくるだろう。

生物から見た世界 (岩波文庫)』ユクスキュル,  クリサート, 等著

自然科学版 エマニュエル・カント
とも言える
ユクスキュルによる
「生物から見た世界」

対象を客体として認知するのではなく、
あらゆる動物にとって
自らの知覚認知した対象が対象なのである

酪酸と温度感覚だけで相手を感じるダニ
にとっては
他者は
酪酸と温度でしか
測れないし
測らない

形態知覚を持たない生物や
動態でなければ知覚できない生き物
温度で他者を認識したり
触覚、臭覚など
多様な知覚標識があり
我々は互いに相容れない
主観的な知覚記号という限界
シャボン玉で遮断された世界に生きていると言える

我々はこのように世界を異なって見ている
その主体が意味を与えて構築した世界 ​Um ​​ welt)」は日本語で「環世界」と訳されている。ハイデガー的「存在」へとの類似性を感じる方がおられて当然であろう

日本でも
ゾウの時間 ネズミの時間」(本川達雄著)により
時間は
体重の4分の1乗に比例し
体のサイズによって
時間が変わることは既に知られているし

住む空間によっても性質が異なってくるのも動物だけではない

に生息する
型動物は段々 さくなり
サイズのさい動物はきくなる。
(島では大型動物の捕食する動物が限られているから)

これは人間でも同じで
島国では出る杭は打たれる
エリートのサイズはさくなり
庶民のスケールはきくなる」

反対に

大陸では
スケールのでかいとてつもないことを考えたり
常識はずれのことをしても
周りから白い目で見られたら
「よそに逃げていけばいい」
天才や大型が生まれやすい環境だ
その代わり
大陸では
「スーパーのレジにしても…あきれるほど対応がのろいし不適切」
          (ゾウの時間 ネズミの時間)

従って 
時間や空間なしに主体はありえない
のではなく
ユクスキュルのいうように
生きた主体なしに時間や空間はありえない
と言わねばならない
皆が異なるシャボン玉の中で生きているからだ

だから
映画を一緒に観に行く人を選ぶとき
結構難しい。。。

好きな映画も
鑑賞後の視点も各々違う。
突き詰めて言えば 
まずはこういうことである。

18分の1秒以内にコマの移動がおこらないなら
目障りなちらつきがおこり
映画が映画として成り立たないのだから
多かれ少なかれ
体内に
同じ時間が流れている人としか
映画を見ることができない。
体の大きい人にはゆっくりとした時間が
小さいサイズの人には俊敏な時が
流れているというではないか

また 
聴覚が異常に発達している人(音感良すぎる)や
動態にいちいち興奮する人も難しい
イグ・ノーベル賞研究で分かったことだが
バッタは接近シーン
なかでも、
悪役のダースベイダーが接近するシーンで
特に脳細胞が活性化するそうで
バッタとスターウォーズを見に行ったら
面白そうだが
いちいち横でリアクション激しく
大変そうだ
ひと同士にも同じことがいえるだろう

そして…
いまや
身体とは
遺伝子の乗り物
に過ぎないかもしれない(ドーキンス)と言われている
つまり
ウニ
足で歩いているのではなく
足がウニを動かしている

ユクスキュルが発見したように

ひとが手を動かす
寸秒前に
手が先に動いている
との発見も
未だ科学で解けない疑問として残っている

結論
「科学的真理とは何か?」
「今日の誤りである」
   (ユクスキュル in「動物の環境と内面の世界」)

真理とは誤りである
その通りである
時計=客観的時間とは 本当の時間ではない
各々の心臓の鼓動こそが
真に「自然」な時間である

学校のチャイムがなって
おしっこに行ってはいけない

これほど自然に反した行為はないのである

“nature calls”

膀胱が
肛門が

ヒトを動かしている

空間
おしっこがしたい→決められた場所に移動
時間
        →チャイム前に済ませる

時空間的に
これほど自然に反したunnnatural な行為をするのは人間だけである。
スカート ハイヒール 香水が生まれたのも
自然に忠実に
したい時に
どこでも排泄をしていた人間の知恵だった

お弁当は絶対に12時に!
最近 このルールが昔ほど徹底されなくなっている
朝ごはんを食べてこない子どももおり
お腹空いたら食べる」
朝からお弁当を食べて
昼には別のものを食べる子もいる

私は講義中に
水に代わりにコカコーラを飲んでいて
お叱りを受けたこともあったが
イギリスの大学では…であったし
今では
授業中に生徒に水を飲まさず
熱中症で倒れでもしたら???
塩飴も食べて良いとなれば
何飴を食べているかの管理など
できなくなるだろう

我々も「動物」なのだから

でも講義中にお腹が空いたと
お弁当食べ始めたらアナーキー
教室でおしっこされてもアナーキー
我々は人間なのだから

我が愛猫 とうふちゃんは
愛❤️恋し
寂しくなったら?
気持ち良い場所に
シーしちゃうので
我が家は
アナーキー❤️‍🩹だが

私もドイツの詩人
リルケが犬に噛まれた時、
犬は正しく
犬は犬なりの仕方で
彼が完全に間違っていることを示そうとしただけ
とリルケのように言えるようになりたいものである。
(レップマンによる伝記 inリルケ全集別巻 小島衛訳)

オルフォイスへのソネット一篇(1-16)で
犬が謳われているが
犬や猫は
主人の死を
主人より先に
主人のおでかけを
主人が出るより先に知り
落ち込む生き物である
おしっこくらいなんだ!!
…と言えようか???

赤ちゃんの時のとうふちゃん










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