読書メモ 「饗宴」

「饗宴
 プラトーン 著
 森 進一 訳
 新潮文庫 昭和43年



会合のテーマ発起人パイドロス、アガトーンの愛人パウサニアース、生真面目な司会者エリュクシマコス、トリックスター的喜劇詩人アリストパネース、理想主義者の悲劇詩人アガトーン、そして掴みどころのない巨人ソークラテース…。紀元前416年の冬、アガトーンの家に集まった面々は、エリュクシマコスの提案により、前日のアガトーンのレーナイア祭での第一回優勝祝賀会での酒が残っている(つまり「饗宴」は日を跨いでの二次会ということになる)ことを鑑み「ほどほどに飲みつつ」「いましがたはいってきた笛の女も去(い)なせて」愛についての対話劇を繰り広げる。酒も女も縁薄き宴、これが『饗宴』の品書きである。


トップバッターの青年パイドロスは、プラトーンの『パイドロス』でソークラテースと「恋」について語った人物だ。そして、いまだかつてエロースに讃辞が捧げられていないことに憤慨し『饗宴』のテーマが「愛」になるきっかけを作ったのだが、その演説自体は、愛なくして勇気も徳も生まれないという平凡な内容に終始している。古人の引用を繰り返す様はソフィスト教育のペダントリーを暗に表しているそうだが、ともかくも、高らかに愛の神エロースを讃美し演説の口火を切るのである。


パウサニアースは、エロースの母アプロディーテーの出自に関する伝承から、エロースには地上的(パンデーモス)なエロースと天上的(ウラニオス)なエロースの二人がいるという立場をとる。そしてウラニオスな愛こそが重要だと唱えるのだが、話はここから当時の慣習に反し、成人したアガトーンと恋愛関係が続いていることに対しての自己弁護とも取れるような論調に転じていく。
「パウサニアースが話を止めたので(パウサメノス)」という語呂合わせに、プラトーンの(語り手アポロドーロスの)パウサニアースの論旨の乱れに対する「からかい」が透けて見える。この後、本来ならば順番はアリストパネースのはずだが、ここで有名なアリストパネースの「しゃっくり」が発生し、急遽エリュクシマコスに交代となる。(ジャック・ラカンは、大胆にもこの「しゃっくり」は、パウサニアースの演説中にアリストパネースがずっと笑っていたせいだとしている)


医師エリュクシマコスは、パウサニアースのエロース二人説を敷衍し、医術のみならず体育術や農耕術、音楽など、全てはエロースの力によって統べられていると学者然とした調子で語る。しかし、エリュクシマコスにおいては演説の中身よりも、その立居振る舞いに注目すると面白い。
宴がどんちゃん騒ぎにならずに済んだのは、医師として酩酊の害を説いた彼のおかげである。演説の順番を決めるなど、有能な司会者ぶりも発揮している。酔客の闖入の際には愛人パイドロスとともにさっさと引き揚げるなど、なかなかの実際家だ。振り返れば、その演説もエロースというよりも学術の話に寄っており、はっきり言うと、彼はエロースにはそれほど興味がなかったのではないか(愛人パイドロスが提起したテーマだったにもかかわらず)とまで思えてくる。医師であるエリュクシマコスは、ともすれば空疎な形而上学的対話劇に陥りかねないこの舞台で、あくまでもリアリストとして存在している。彼は『饗宴』において、アリストパネースとはまた違った意味での「異分子」であり、宴を外側から眺める「傍観者」に近い存在と言えるのではないだろうか。そしてプラトーンは、エリュクシマコスをアリストパネースに対してと同じように、若干カリカチュアライズして描いているのだが、それは「傍観者」をさらに外側から傍観して見た視点、いわば「神の視点」から見ていることの証左だと考えられないだろうか。


さて、何と言ってもアリストパネースである。私は昔読んだ時『饗宴』=アリストパネースの話だと思っていたほど、その「片割れ論」は強烈なインパクトと魅力がある。自身の著書『雲』でソークラテースを揶揄した彼だが、だからといって『饗宴』で悪く書かれているわけでは決してない。むしろ他の面々とは一線を画したトリックスター的役割を与えられ、哲学談義に生き生きとした華を添えているとさえ言えるのだ。
アリストパネースは例の「しゃっくり」とともに登場する。この「しゃっくり」には諸説あるそうだが、エリュクシマコスとの急遽の順番交代というアクシデントが、アリストパネースという異色の演者登場の予感を高めていることを見れば、少なくともここにプラトーンの戯曲作家としての手腕が現れていることは否定できないだろう。そのショック療法的手法は、前者三名のどちらかと言うと平板なエロース礼賛に深みを加えている。


悲劇詩人アガトーンは、前述四人のエロース讃歌を全て足してもまだ足りないとばかりに、最大限の讃辞をもってエロースを褒め称える。しかし、アガトーンその人も眉目秀麗な人物だったように、ややもすればその賛辞はナルシズム的な美辞麗句に傾きがちである。アガトーンのエロース論は、この後ソークラテースにより覆されることになるのだが、読者はこのレトリカルで完全無欠なエロース讃歌に思わず説得されてしまう。


いよいよ真打ソークラテースの登場である。
ソークラテースはアガトーンの矛盾を論駁する。ではソークラテースの真意は何なのか。ところがソークラテースは、はぐらかすようにエロースについて自らの見解を語らない。というよりも、マンティネイアより来た女(ひと)ディオティーマ(架空の人物とされる)に教えを乞うという形でその主張を披瀝するのだ。ソークラテースがアガトーンに対してそうしたように、ディオティーマもソークラテースのエロース論を論駁する。
ディオティーマによれば、エロースは「神と人との中間者である鬼神(ダイモーン)」であると言う。策知の神ポロスと貧窮の女神ぺニアーの息子であるエロースは、その不完全性ゆえに「愛を求める者」なのであり、「愛される者」ではないのだ。ソークラテースより前述のエロース論は、エロースを「愛される者」として語っており、ここにソークラテースと他との決定的な違いがある。エロースの愛とは「永久に善きものが我が身になることを愛する」愛であり、人は自らの手足でさえ、有害と判断したなら切り取ることも厭わないゆえに「愛の対象となるものは半身でも全身でもない」と、アリストパネース説も否定する。そしてディオティーマは不死性を求め「魂において懐妊」することが最も尊い、という結論に達するのだ(その際、決して肉体性は否定されていない。一つの肉体への愛をスタート地点として、最終的には美そのものの認識に至らねばならないとしている)。
しかしここまで読み感じるのは、ソークラテースは他の五人のエロース論を全て否定しているわけではないということだ。このリレー形式の対話劇において、各人の意見の中に、ソークラテース自身の意見が少しずつ加えられている。ここに『饗宴』の妙味があると感じる。


宴もたけなわだが、ここで酩酊したアルキビアデースが不意に登場する。
アルキビアデースは、ペロポネス戦争でシケリア遠征を主張し、アテーナイ敗北の遠因を作った人物とされる。終戦直前に祖国を敵国スパルタに売り、才色財誉を兼ね備えながらも、その道徳的欠陥によりアテーナイ人の顰蹙をかっていた。ソークラテースはそんなアルキビアデースと親しかったことから告発され、最終的に死刑を宣告され、毒を煽り死んでいる。
ソークラテースの演説により、会がお開きになるかと思われたところに、アルキビアデースが登場する意味は何か。それは「アルキビアデース問題」に関し、ソークラテースの生活を弁明するのが、実は『饗宴』の一つの目的だったからと言われている。自らの美しさになびこうとしないソークラテースを妬み、酩酊したアルキビアデースは何を言い出すか分からない。そんなアルキビアデースに師の人柄を語らせて弁明になるのか。ところがアルキビアデースの語るありのままの師の姿は、何のことはない、普段の師と一つも変わるものではなかった。ソークラテースには、表も裏もなかったのである。この戦略なき戦略が最高の弁明になったであろうことは、想像に難くない。


以上が『饗宴』で演説する面々と、エロースとの交歓の一部始終である。しかし我々は、今一度ここで冒頭に立ち返り、プラトーンと『饗宴』との位置関係について考えを巡らせなければならない。それは、冒頭を読むとわかるように『饗宴』の作品形式が、実にややこしいという事実に直面するからだ。
この作品は「アポロドーロスによる報告」という形をとっている(アポロドーロスはプラトーンだという説がある)。しかし、アポロドーロス自身は「饗宴」に参加したわけではない。参加したのはアリストデーモスであり、彼から聞いた話をそのまま、アポロドーロスは知人グラウコーンに報告し、日ならずして同じ報告を別の友人たちにしている。それがこの『饗宴』という作品になっているわけだ。その際、アポロドーロスはグラウコーンの「或る人」から聞いた「饗宴」についての誤った認識を訂正している。よってアポロドーロスは直接アリストデーモスから聞いた話を語ることで、誤報を訂正しようとしている。しかも問題の会合が行われたのは、アポロドーロスやグラウコーンがまだ子供だった時分だという。アポロドーロスは随分前の話を訂正しているということになる。
この入り組んだ舞台設定の理由は何か。やはりそれはエリュクシマコスという人物を登場させた意味や、その描き方もそうだが、そこには自らを渦中に置かずに「神の視点」で語ることにより話の正当性を強調し、ソークラテースを弁護するという意図が働いていたのでは、と考えると納得できないであろうか。

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