おれの人生__4_

自分の人生を振り返ってみた【第4回】

サワディーカップ。タイのバンコクからごきげんよう。

突然ではあるが、自分の人生を振り返ってみた。今回は「第4回」大学時代の前半について。備忘録的な感じで自分が思っていることを素直に書き記してみた。

本文に入る前に、まずは簡単に自己紹介を。

高橋智喜(たかはしともき)
・1994年千葉県生まれ。
・タイのバンコク在住。
・明治大学法学部を卒業後、新卒でフリーターに。
・フリーター期間中は東京都内のベンチャー企業で働く。
・その後「海外で暮らしたい」という想いを捨てきれず、日系のタイ法人への就職が決まりバンコクに移住。今に至る。

自分で書いていて思ったが、レールを大幅に外れた人生を送ってきた自信は少なからずある。

構成は全6回でざっくり以下のような形。

・第1回:幼少期〜小学生時代
・第2回:中学校時代
・第3回:高校時代
・第4回:大学生時代前半←今回の記事
・第5回:激動の留学時代
・第6回:留学後〜現在(25歳)まで

自分がその当時、どんなことをして、何を感じていたのかについて赤裸々にまとめてみた。楽しんでもらえれば、これ幸いである。

前回の人生記録は、以下の記事を読んでいただきたい。

それでは、さっそく本題に入っていこう。


◇大学時代

高校を卒業したおれは、生まれ育った千葉県から飛び出し、東京にある大学の法学部に入学した。法学部に入ろうと決意したのも、小学校時代から思い描いていた将来の夢であった「警察官」になるためだった。

小学校時代のおれについては以下の記事を読んでもらえるとありがたい。

法律を学んで大学を卒業し、警察官になり、みんなが安心して過ごせる社会を作る。こんなことを想像しながら受験勉強に励んでいた高校3年の秋が懐かしい。

◇大学デビューに失敗

そんな真面目な考えとは対照的に、大学に入学する前後のおれは異性との出会いを求めていた。端的にいうと華々しい「大学デビュー」を実現させたかったのである。

「大学デビュー」とは…
高校生の頃は、それほどクラスで目立たない存在だった人が、大学に入って、主に友達が多く、異性にもモテるような、充実したキャンパスライフを送りたいという気持ちから、見た目や言動を大きく変化させることを意味して用いられる語。(引用:Weblio辞書)

中学・高校合わせて6年間ほど野球部という「男社会」に揉まれてきたせいか、新しい出会いや新しい価値観に触れる機会が欲しかったのだ。

そのせいか受験シーズン中のおれの第一志望校は、実際に入学した明治大学ではなく上智大学という大学だった。上智大学といえば、「英語」「国際色豊か」そして何より「女子大生が多い」ことで有名である。大事なことなのでもう一度繰り返す。上智大学には「女子大生が多い」のだ。なぜおれがこの大学を第一志望校にしていたかについては、ここまでの流れで察してもらえるとありがたい。

そんな話はさておき、結果的には明治大学でキャンパスライフを過ごすこととなった。おれが在籍していた法学部には真面目な学生が多かった。話の合う友人もそれなりに多かった。そして何より「男」が多かった。男女比でいえば、だいたい「7:3」。いや、おれの体感では間違いなく「8:2」だった。受験期に思い描いていたユートピアはただの幻想だったようだ。どうやらおれには男社会が向いていたようである。

事実は小説より奇なり、である。

さらに余談になるが、もう少し大学受験に関する余計な話をさせてほしい。

ここだけの話だが明治大学の受験日当日、非常に興味深い出来事があった。受験会場に向かう途中、焦りすぎて地下鉄の「女性専用車両」に誤って乗車するという事件を起こした。東京という大都会に慣れていない学ラン姿の坊主が、通勤時間帯で混雑する地下鉄の女性専用車両に全力で駆け込む姿を想像してほしい。その後、車両内で周りからの冷たい目線を感じ、ようやく事の重大さに気づいた。通勤中のOLや東京のマダムたちから、白い目で見られたのを鮮明に覚えている。

幸いにも次の駅で違う車両に移動することができ、事なきを得た。そして、幸か不幸か大都会の洗礼を受けたあとは、妙に頭が冴えていた。その後すぐ、大学に到着し試験を受けるわけだが、この時は異様なくらい受験問題をスラスラ解けた記憶がある。ある意味、吹っ切れていたと言えるだろう。女性専用車両のおかげで大学に合格することができたのだ。それ以来、女性専用車両に足を向けて寝られない日々が続いている。

このエピソードで何を伝えたいのか書いている本人も全く理解できていないが、ひとつ得られた教訓として、人間煩悩がなくなると意外と簡単に状況が好転することがあるものだ。かっこいいことを言っているようだが、単なる負け惜しみであることは否めない。

そんなこんなで、待ちに待ったキャンパスライフが始まったわけだが、大学の授業に関しては欠席することなくノートもしっかり取りながら参加していた。大学でよくよく見かける超合理的かつ戦略的に単位を取る「楽単ハンター」に比べたら、正反対のポジションにいるような学生だった。

大学を象徴するサークルも興味本位でいくつか見学に行ったり、参加してみたが長続きしなかった。大学生になっても飽きやすさは変わっていなかった。どうやらサークルにもおれが輝ける場所はなかったようである。

こうしておれは大学デビューに別れを告げた。

◇唯一、情熱を傾けられたもの「留学」

そんな当時のおれであったが、1つだけ異様なくらいに情熱を傾けているものがあった。それは「留学」である。大学受験の際に必死で勉強した英語の知識だけは無駄にしたくない、英語でコミュニケーションを取れるようになりたい、と思っていたのが大きな理由だった。この当時を振り返ってみて思うのが「どうにかして自分を変えたかった」ということだ。

大学に入学してすぐ留学の準備に向けて動き出した。こうして始まったのが、「留学資金を調達するためのアルバイト」である。

当時おれは実家のある千葉から東京に電車で通学していたため、バイトは通学区間内でやることに決めた。そうして選んだのが、某有名テーマパークの隣に位置する商業施設「イクスピ◯リ」だ。

おれはこの商業施設の中にある、とあるレストランの皿洗いとしてバイトキャリアをスタートした。華々しいバイト生活の幕開けである。

おれが働いていたレストランはバイキング形式のレストランだったため、1日にとんでもない数の皿や食器を洗っていた。少なくとも1日の間に、数千枚の皿と向き合っていた。当時、「皿洗いコンテスト」という名の競技があったとしたら、間違いなく全国でTOP10入りできるくらいの腕はあったと自負している。大学では、思うように交友関係を広げられなかったが、バイト先ではたくさんの仲間ができた。そう「数千枚もの皿たち」である。

そんなこんなで平日は大学、週末はバイト、という生活を1年3ヶ月くらい繰り返した。留学費用を全てまかなえるような金額ではなかったが、留学先で十分に遊べるくらいの資金は調達することができた。

初めて自分の力でまとまった金額を貯めることができ、留学に向けて自信がついたのを覚えている。

留学準備は、資金面以外にも行なっていた。留学前に一度リアルな海外を自分の目で見てみたいと思い、19歳の時に大学の友人と初めて「グアム旅行」に行った。見栄を張ってヒルトンホテルに泊まったのが懐かしい。男2人のヒルトンホテルである。日本から3時間ほどのフライトであったが半日くらい飛行機に乗っているような窮屈さを感じたのを覚えている。大学デビューは不発に終わったが、海外デビューは果たすことができた。

また、英語を使ってコミュニケーションをしたいという考えから、東京都内で行われていた国際交流イベントやパーティーに参加した。当時は、それほど見ず知らずの人と話すことは得意ではなかったが、この時ばかりは一皮むけるチャンスだと感じ、一心不乱に話しかけていたと記憶している。リアル出川イングリッシュである。小さくても最初の一歩を踏み出せば誰でも「出川」になれるのだ。

「TOEIC」や「TOEFL」と呼ばれるビジネス英語やアカデミック英語のレベルを測る試験も複数回受けた。ビジネス英語向けのスクールやコツコツ独学を続けていたからだろうか、テストを受けるたびにスコアも伸びていったのでモチベーションも維持できた。英語の試験以外にも、趣味として海外ドラマ、映画、洋楽、YouTubeなど幅広い媒体から日常的に英語に触れていたため留学の直前にはリスニングに関してはほとんど抵抗を感じなくなっていた。 

その後、大学前半の2年が終わるタイミングで、1年間休学し留学をすることにした。当時休学することは復学後に学年がズレるという理由から、それほどメジャーな選択肢ではなかったが、自由に1年間を使いたいという思いからほとんど迷うことなく休学申請をした。それくらい当時のおれは本気だった。

こうしておれは留学先のロサンゼルスへ旅立つべく、成田空港へと向かった。


【第5回】激動の留学時代、に続く。


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