正義は自己満足

■正義は悪

不倫、差別、不正、犯罪etc
世の中には悪と思われるものが多々ある。

そういったものが世に出る度、行き過ぎた正義感が現れるのが最近の流れだ。
例を挙げれば、自粛警察、SNS上での加害者叩きなど。

そういうものを見るたびに私は吐き気がする。
気持ち悪い。気持ち悪すぎる。

某芸能人がSNS上で叩かれたことが原因で自殺した件がわかりやすい。
芸能人に「態度がよろしくないから」と罵詈雑言を浴びせた人に対して、
「お前らのせいで自殺した」と罵詈雑言を与える。

罵詈雑言が原因で自殺者が出たのに、
罵詈雑言を与える。

つまり正義感の矛先に別の正義感がある。

社会的に見れば間違った正義なのに。

自身の正義の御旗のもと、他者の正義を叩いているのだ。
そこに自分が悪であるなんて思っている人は誰もいない。
そして悪には何をしてもいいと無意識に考えている。
まるで戦争だ。

すこし整理したい。
ここでいう正義は哲学的なものではない。
哲学的、つまり全人類に普遍的な正義ではなく
各個人が持つ価値観に基づいた正義だと思っていただきたい。

なぜなら昨今、一般的な人々が使う正義が
先に挙げた個人の価値観に基づいた正義であるからだ。

正直、哲学的な正義の存在も怪しい。
そもそも絶対的な悪がないと、普遍的な正義は存在しないのではないか。
では絶対的は悪とはなにか。

絶対的な悪はなにか。
説明はできない。なぜならそんなものはないと私は考えるからだ。
悪もまた時代や風潮、なにより個人の価値観で変わる。

つまり正義と悪は個人の価値観で変わる、というのが私の考えだ。
個人の価値観というと少し言い過ぎかもしれないので流行としておく。

現代社会では差別は大きな悪として、排除しようという流れである。
私自身、差別はないほうがいいと思うので賛成なのだが、
百何十年前には奴隷が当然であったわけで、その当時は差別は悪ではなかったと思われる。

不倫、浮気も同じくだ。
宗教や文化として一夫一妻制が現在の主流であり、
不倫や浮気は悪として扱われている。
ただ生物として子孫を多く残したいからこそ、
ほかの異性に行くわけだ。
なので生物学的に見たら不倫、浮気は悪なのか?ということだ。

※生物学も文化人類学なんかも専門でもしっかりと学んだわけでもないので頓珍漢なことを言っていたらすみません。

その時代の流行で正義が変わるのであれば、
その正義を信じて、その正義に沿って行動すればいいとも思われるが、
ここで問題なのが多様性の話だ。


■多様性の多様性

ダイバーシティ、多様性を認めましょう。

私は大賛成だ。
多種多様な生き方が認められるならとてもいいことである。
なぜなら個々人の選択の幅が広がり、自由に近づけるからだ。

だが、多様性を認めるとは言うは易く行うは難しだ。
人間は自分と異なる存在を排除するようにプログラムされている。
だからこそ今日の多様性を掲げる人々は少し間違った考え方をしておられる。

多様性を認める。
様々な考え方を認める。
それはつまり差別意識を認めるということになる。

真の多様性は差別意識すら認めないといけない。
差別意識を認めなければ、多種多様な考え方を認めていないからだ。

白人主義者の考えを認めず、白人主義者を排除すれば
それは白人主義差別である。
人種差別、宗教差別と何ら変わらない。

差別は悪だから認める必要はないなんてナンセンス。
それは多様性を根本から否定するようなもの。

今日の多様性を掲げる人々のなかでそれを理解できている人が何人いるだろうか。
多様性の定義にも多様性があっていいなんていったら一向にダイバーシティなんて実現できないだろう。

そもそも多様性といいながら、
ほぼほぼLBGTか人種差別の運動くらいしかないのもおかしい。
性的少数を認めようというならもっと少数で立場の弱い人は5万といる。
ペドフィリアなんて典型だ。
罪を犯したわけでもなければ、
罪を犯さないよう細心の注意を払っている人もいるのに
一部のロリコンが罪を犯しただけでその性的趣向を持つ人すべてを縛り上げているのだから。

私はLGBTの方々にとってよりよい世の中になってほしいと願うが、
同じくらいほかの性的少数者も認められてほしいと願う。

注意していただきたいのは先に挙げた
"差別意識"は認められるべきだが"差別"は認められるべきではない。
ロリコンも認められるべきであるが、罪を犯すことを認めるわけではないということ。
社会に生きるものとして、他者の権利を害することまで認めてはいけない。
というより、多様性というものを突き詰めると妥協点としてそうなると考える。
他者に害を与えた時点で他者の権利を害し、他者から自由を奪うことになるからだ。

なんだか書いていて思ったが、
我々は同じようなことを小学生のころ習っている。
基本的人権の尊重だ。
日本国憲法は時代の最先端だった…?

■正義を疑う

話を正義に戻す。

十人十色の考えがあれば十人十色の正義がある。
誰かの正義は誰かの悪になる。
これが一つ目の私の主張。
なんだかありきたりな気もするが真理だと思う。

そしてもう一つ、
厄介なのは悪ではなく、
自分の正義を信じて疑わない人。
これもどこかで目にした言葉だが真理だと思う。

私は正義という言葉が嫌いだ。
それは自身の正義を普遍な正義であると信じて疑わず、
正義の御旗のもとであれば悪に何をしてもいいと(本能的に)考えている人が嫌いだからだ。

正義を否定するつもりもないし、
もし普遍的な正義があるなら従う。

ただもしそんなものがないのなら、
自身の信じる正義を疑う目を忘れないでいただきたい。

私の正義は本当に正義なのか、
目の前の悪は本当にみんなにとって悪なのか。

自分へのメモとしてここに記しておく。

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