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祈りをむすぶひと
リンリエさん。台湾にルーツを持つ彼女は、
Lakuda hotel bekkan の名前で、壱岐島で活動されている。
新月から満月へ。
満ちる月のパワーにのせてむすばれる、土鍋で丁寧に炊かれた、お米と塩だけの、おむすび。
ひとつひとつ丁寧に食べ手の目の届くところで、むすんでくれる。
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リエさんのむすんだ、おむすび。
2年半前に食堂の小上がりでひとり、チリトリ自由食堂で、窓の外をボーっと眺めながら食べた。
初めて食べた時、しずかにしずかに、なみだが頬を伝ったのを今でも身体がよく覚えている。
不思議な体験だった。
風に揺れる、あおいチリトリの暖簾や、朝の光のなかでことりがぱっと飛び立つさま。
今、生きて、生かされていること。
今になって、それらが、リエさんのおむすびに込められた想いが種となって、自分の身体に染み込み、どの瞬間にも世界に配られている優しさにハッと、気がつけた瞬間の涙だったと気がついた。
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食べたものは、食べた誰かの一部になる。
料理人という仕事をしている以上、食べていただくのだから、喜びをつくり、配るような仕事をしたいと、願って来た。 (東日本大震災ののちに、つよく。)
食べた方の喜びの一部となるように。
おいしいものは、こころをほどき、なんだか元気が出なかったり、元気がある人でも、もっと元気になったりできる力があると信じている。
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おいしいものは、こころがほどける瞬間を、生きる力をつくることができるのだ。
リエさんのおむすびは、その極まりのかたちだと思う。
神戸の震災の被災時にうけとったやさしいおむすびがリエさんのルーツだ。
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丁寧に土鍋で炊かれた、ひと粒ひと粒のお米のふくよかな甘さや香り。
海を感じる塩がそれを引き立て、身体に、そして心に、しみじみとおいしい。
”必要な方に届きますように”
そう言ってリエさんは、おむすびをむすび続けている。
それは誰かにとって、素直な美味しさだったり、自分の中にある感情をふっと、呼び覚ますものだったり、わたしのようにやさしさに気がつけるきっかけだったりするのかもしれない。
こころがほどける瞬間をむすぶリエさん。
おむすびにむすばれているものは、やさしい祈りだ。
いろんな事があるけれど、世界は優しさでできている。
信じている。
おいしい体験のなかにいろいろなものがたりがある。
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この文章は、ずいぶん前に書き上げていたけれど、なかなか外に出すことができなかった。
そうして、今年2023年の2月に、リエさんは生まれ育った家を住み継ぐために、島を出ることになった。
わたしは、最後にリエさんのおむすびが食べたい。
と、2023、1、22日、新月の旧正月、元旦にラクダホテルのハナレオープンデイを、リエさんのおむすびを予約した。
その日は、日曜日の朝で、曇りで、冷えた空気と、休日の、しんとした静けさがあった。
「おはようございま~す」
土鍋から湯気がホワホワと上がり、温められた部屋。
石油ストーブの上のやかん。
春節(旧正月)のお祝いの真っ赤なオーナメントと共に、壱岐島の渡辺鉄工所の小次郎さんがつくった、まあるい新月のような黒い鉄のプレート、細く細く丁寧に削られた竹のお箸と、ラクダホテルのブルーで透明な案内状が置かれていた。
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島にいる4年間のうちに、どうしたら色々な人に届くのか、試行錯誤しながらリエさんの活動も深みやカタチを変えてきた。
案内状には、丁寧な言葉で。
『手渡したいものは、わたしの軸につながる時間と場所。』
眼鏡をはずして窓の外の曇り空がつくったぼんやりとしたグレーな空の色をみていた。
(わたしは眼鏡をはずすと、1m先が見えない)
わたしは、繊細さん(hspやエンパス気質そのどちらもかもしれない。hspは5人に一人の割合)で、暮らしの中で常に情報をたくさん拾ってしまう。
視覚からの情報は8割。つまり、目を閉じていなければ常にかなりの量の情報を、外側から受けとっている。
わたしはつまり、常に情報をたくさんキャッチしてしまう。
誰が悪いというわけではなく、受け取ったたくさんの情報から、自分の感覚からずれていってしまいやすいという自覚がある。
かけていた眼鏡を置いたのは、湯気やストーブの気配や、味覚や香りや、音に、視覚以外の自分自身の五感を研いで、耳をすましてみたかったから。
自分の内側から、新しく聞こえてくる感覚や音は、ないだろうか、、、
途中、リエさんの大家さんが、リエさんのために、お雑煮を持ってきてくれ、近所の自由なねこ、じゅりが家の中に入ってきた。そして、ごろごろと寝だした。笑
平和で、ゆるんだ空気のなかで。
ラクダホテルの初めましての挨拶には、
『自分の感覚を見つめ、その感覚を大切に扱い、自分自身を信頼し尽くす
それはいつでも、わたし自身が「わたしの軸」につながり続けるための大切な指針
おむすびや台湾茶、聲(声)の響きをとうして、心の真ん中に在るものを感じる手助けとなりますように、ラクダホテルで過ごす時間が「わたしの軸につながる」ヒントとなりますように、そう願っています。
と、ある。
藤のカゴを持ったリエさんが現れ、
『じゃジャーン、塩娘です」
と、塩のたくさん入ったカゴを置いた。
(ほんとにじゃジャーンといった登場をしたけれど、リンさんがやるとなぜかおちゃめセンスに変わるミラクル)
カゴの中には。壱岐島で、リエさんが自分で汲み上げた海水でつくった塩。
新月のひ、満月のひ。
長崎の野母先崎の塩、宮崎県日向の塩、屋久島の塩、対馬の塩。
『どの塩で結ぶ?」
リエさんに問われ、わたしは壱岐島の新月を選んだ。
1、22、その日が新月だったからだ。
壱岐島の新月のおむすびからいただく。
リエさんのおむすびは、程よく解ける
新月は、静かに内側に降りていくような味わい。
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満月は、海のいきものたちが活発になるからだろうか
なんだかワイワイと騒がしいような味わい。
ぜんぜん味わいが違いますね、というと、新月は裏側から引力が働き、満月は上に引力が働き、潮が海が動いていると、リエさんが教えてくれた。
シンプルに、米と塩だけでたべ、五感にみみを澄ますからこそ響いてくる違い。
普段見過ごしてしまうけれど、確かにそこに在るもの。
次に、各地のおすすめの塩で食べてみたけれど、そのすべてに違う土地のエネルギーを感じた。
とくに、屋久島の塩は、苦味や塩味の底知れない力強さみたいなものを感じて、その土地土地に宿る味わいの違いを通じて感じるものがあった。
自分が料理するときに、食材とあわせるときにどんな風に使おうか、思いを馳せる。
壱岐島の満月の命の沸きたちと、新月の静けさと。
壱岐島の塩は、新月も満月も柔らかな女性。月の光。
そんな感じだ。
塩やお米の話をしながら、リエさんのこえを、五感で受け取ってみる。
うきうきと可憐に響く声は、彼女の今を伝えてくれる。
視覚は確かに多くの情報を持っている。
けれど、声もたくさんのことを伝えてくれるとわたしはおもっている。
たくさん笑っていても、本当は怖がっていたり、怒りながらやさしさを宿していたりする。
人間は、不思議だ。
こえは、その人の本質を尋ねるときのみちしるべになる。
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そんなことを考えながら、感じながら、話していた時に、おむすびのお皿に
、鉄の、小次郎さんのつくったまるいお皿に視線を移した時に、す 、と、お皿の下に伸びたふかい穴に、闇に落ちていった。
正確には落ちていくような感覚になった。
リエさんの声は現実に聞こえている。
あ、、、
お皿ひとつぶんの深い闇に、どこまでも落ちていく、けれど、こわい のはほんの初めだけだった。
す と 落ちていく、わたしだけ、わたしひとり分だけの闇に。
あまりにも静かに。
けれど、不思議と、信頼していた。落ちることを。
そうして微かな信頼を頼りに落ちて、落ちきって仕舞えば、、
わたし一人分の闇の底の底には、
初夏の柔らかな草。
その上にわたしは、立った。土の匂いと、柔らかな草の感触の中に一人立っていた。
その場所は、たぶんずっと探していた場所で。
わたしだけにしか辿り着けない場所。
わたしだけは知っていなければいけない場所。
わたしだけが知っていればそれだけでいい場所だった。
そのときにすべてが在った。
そしてわかった。
今までわたしは、闇をこわがって、この柔らかな場所が在ることに気がつけないまま闇だけを見つめ生きていた。
なんのことはない。
信頼してしまえば。
100%、信頼してしまえば、闇も、落ちてしまう事すら信頼して仕舞えば。
そこにはやさしさだけがまっていた。
1秒くらいの体験だったと思う。
この日のために、はじめて、チリトリ自由食堂でリエさんのおむすびを食べたときに泣いたのかもしれない。
とおもった。
この日にたどり着くことがわかっていたから。と。
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リエさんと、新正月と、わたしと、じゅりと、湯気が、おむすびが、この日、4年前から待ち合わせしていた。
そんな時間だった。
そんな時間を、つくっているのは確かに、リエさんだった。
最後にリエさんは、本を一冊渡してくれた。
村上春樹の『遠い太鼓』
リエさんはそっとギフトを渡してくれていた。いつも。
わたしは、わたしだけにしかたどり着けない場所。
わたしだけは知っていなければいけない場所。
わたしだけが知っていればそれだけでいい場所について
手を、言葉を、声を、いのちを使えばいいのだということが、
この日、こころから身体から、わかったのだ。
それは、みんなみんなおなじだからと。
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春がたつ。
人生という不可思議なものがたりはおくりものをふやしながら続いていく。
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