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最高の幸福とは

とこのめです。

さて、今日は

幸福の定義は
「自己一致していることだ」
という話の続きです。

それをもっとやさしい日本語にすると、
「自分らしく生きていることだ」
ってことですね。

どうですか?
自分らしく生きてますか?

こんな現実は認めることが出来ない。
認めたくない。

と思うのであれば、
自己一致していないということです。

自己一致したい!!
認めることの出来る現実の中を生きたい!

と思ったあなたが、
さらにイメージできるように、
あなたが自分らしく生きた時に
どんな感情と感覚の中で
生きることになるかをお話しましょう。

それは、

「感謝」と「利他」

です。

なんかいろんなとこで言われますよね?

感謝は波動が高いだの。
人に親切にしたり貢献したりすることこそが、
人間として一番ステージが高いだの。

はいはい。またその手の話ね。
と思った人もいるかもしれませんね。

でもそれらの「感謝」と「利他」を、
再度噛み砕いてみると、
また違ったものが見えてきます。

さて、では

「感謝」の本質

はなんでしょうか?

僕は

感謝できるほど価値ある存在に
恵まれていると認める行為

だと思っています。

僕は「価値」や「意味」や「意義」は
ほぼ同じ言葉だと思っているので、

感謝できるほど“意味”ある存在に
恵まれていると認める行為

と解釈してもらっても構いません。

要するに
「世界(他人)に価値があると思う」
のが感謝です。

じゃあそれに対して「利他」はどうか?

僕は

他人に施せるほど自分に
余裕があり価値があると認める行為

だと解釈しています。

他人に施せるほど自分に
“余力”があり“意味”があると認める行為

です。

「情けは人の為ならず」という言葉がありますね。

よく「良いことをしても人もためにならない」
という意味だと勘違いされる言葉ですが、

本来の意味は
「良いことをすると巡り巡って自分のためになる」
という意味です。

利他や貢献や親切は、自分のためにするんだよ。
という言葉です。

まとめると、

「感謝」=他人の価値を認める行為
「利他」=自分の価値を認める行為

ということになります。

「あっっりがてぇぇぇぇ」
と思う存在や、
「いてくれて嬉しい(ハート)」
と言ってくれる存在にばかり
囲まれている状態を想像してみてください。

胸やおへその下辺りがあったかくなったり、
ときめいたりする感覚になりませんか?

そういう状態は
「魂が輝いている状態」
だと思うわけです。

もちろん、夢中で何かをやっている時も、
人の魂は輝いていると僕は感じます。

その時、人の心は
「価値だけ」になっていると思うわけです。

「フルバリュー」「バリューフル」である、と。

僕にとって価値・意味は大事です。
それは「存在」であり「領域そのもの」ですから。

こんなにありがたい存在ばかりだ!

とか、

人の役に立てた!

とか、
そういう「領域」の中身には、
多大なる価値が詰まっている、
と想像できると思います。

それは結構な幸せだと感じませんか?

話はまだ続きます。

ここからが大事

です。

では

「感謝」や「利他」は、自由か?不自由か?

という問いです。

あなたは
「感謝」や「利他」をすると
良いんだよと聞いた時、
どんな感覚になりますか?

僕は昔
「窮屈!!!!!!!」
と感じていました。

なんかこう、自己犠牲的な?

「感謝しなさい!」とか
「人に尽くすべきだ!」とかに対して、

「それ正論?オレ正論嫌いなんだよねー。オッエー」

と思っていました。
「綺麗事かよ。はいはい正しいですねー」と。

「感謝」や「利他」は
僕にとって「不自由」だったのです。

じゃあそれを今は
「愛であるもの=自由」
だと感じられるようになったのは
どういうコトなの?

ということなのですが、それは

「感謝したくない時までしなくていい」
「必ずしも人を喜ばせる必要はない」

と自分を許したからです。

「やらねばならないこと」から、
「やりたい時だけ、やりたい分だけ、やるもの」
になったのです。

その時から、僕の
「感謝」と「利他」は自由になりました。

とても気持ちよく、
自他を愛するためのモノになったのです。

義務から権利になったと言ってもいいでしょう。

「自他の存在意義を感じられないとダメ!」
から、

「自他の存在意義を感じられて嬉しい!」
になったわけです。

そうなったとき、やっと
「価値」「意味」から解放され自由になります。

そして「価値」「意味」を自由に
することが出来るようになっていきます。

僕として、
境界線(領域)を操ることが出来るようになる。

領域展開できるようになる。
そういうことです。

それは、
生きる意味がある現実の中を
生き続けられるということです。

「生きてる意味あるのかな?」
なんて悩みとは無縁になるということですね。

だって、感謝と利他によって
自他の存在価値を感じまくるわけですから。

それって、

「最高の幸福」

の一つだと思っていいんじゃないですか?

と僕は思うわけですが、
あなたはどう思いますか?

あと、
少し補足があります。

僕は
「日常が完全に幸せになると
幸せは認識しにくくなる」
と言いました。

有名な歌でありますよね。
「なんでもないようなことが~幸せだったと思う~」
って。

だから、
「なんでもないことに感謝できる領域」
が素晴らしいんだよ、と。
それが完成形である、と。

でも最近の僕が感じているのは、

そのさらに上の幸福

です。


領域を作るとは
「縛ること」
なイメージだったわけです。

固定の同じものが変わらない。
というイメージです。

だから
「最高の同じ幸せが変わらず続く」
という固定概念でした。

それが今僕の中でどうなっているかというと、

「同じモノがその本質を変えずに
より良く変わり続けてる」

という感覚になっています。

要するに、
「変化が観える」から
ちゃんと「幸せの認識」が存在するんです。

それは
「育んでいる」
「成長している」
という感覚です。

・自分自身の成長
・関係性の成長
・ビジネスの成長
・子どもの成長

そういったものをイメージしてみてください。

同じ存在なんですが、
それがより大きくすくすく育ち
どんどん変化していると感じるのです。

それを感じるようになれたのは僕は
「ドーパミン的な快感」
を感じてもいいと自分に許したからです。

ドーパミンとは、神経伝達物質の一つで、
報酬を得た時に分泌されるホルモンです。

つまりは大きな喜びや刺激を
感じた時に出るということですね。

ドーパミン的な快感は、
依存性が高いとされています。

より大きな刺激より大きな刺激へと、
どんどん刺激を大きくしていかないと
満足できなくなる。だから危険だ、と。

そういう文脈で語られることが多いです。

だから僕も「全否定」し、
「悪だ」とさえ感じていました。

ドーパミン絶対出さないマン
だったわけです笑

依存はあかん。と。

でも、それを自分に許してみたんです。
つまりは「自分の常識を変えた」。

「展開する領域を変えた」んです。

「大きな一時的な喜びを、永遠に感じていい」と。

すると、
「どんどん育っていく喜び」
を脳汁が出る感覚とともに感じるようになりました。

脳汁プシャー。

それだって、
「幸せの一つ」だとちゃんと認めたわけです。

もしビジネスの成長や、
自分や自分と関わる人たちの
育成に悩んでいるのであれば
「依存的な愛」も、時にはアリだと
思ってみるのもいいかもしれませんよ?

関係性が育つのは、嬉しいですから。
それも「刺激」ですから。

もしそれが「悪」になる場面が
あるとすれば、それは
「魂が輝かないのに続けちゃう」
みたいな時だと思います。

でも、
「自分が魂から欲するものが、
変わらず育ち続ける」なら、

それは
「関係性を長く続ける」ということより、
もっと上のステージの幸福なのではないかなぁと思うわけです。

僕では、
どうすればそんな領域に行けるのか?
も、もっと深掘りしてお伝えします。

ではまた。
とこのめでした。


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