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#641 ついに首をば斬り放してしまいました…

それでは今日も山田美妙の『蝴蝶』を読んでいきたいと思います。

月が山にかかっている二十三夜、すこし前まで降り続いた五月雨、かよわい風に梢の雫も落ちてまた雨となります。貧しい草の屋が建っており、壁に矢じりを打ち付けて衣服が吊るされています。時は夜更け…ひとりの男と、ひとりの女が座っています。男は二郎春風、女は蝴蝶です。夫婦となって三年ほど、ここで二郎春風は衝撃の告白をします。自分は、平家の譜代ではなく、源氏の忍びの者である、と。蝴蝶は答えが出ません。女であるが武家の片端、男であるが帝の怨敵、おのれっ二郎!夫を殺す罪…これも帝のため!涙を荒々しく拭いながら、刀を持ち、固唾をのんで近寄る夫の枕元、昨日までは病を撫でた手も、今こそは身を裂く手となろう…

立掛[タチカカ]ッてはいよいよますます滝を落す無情の涙﹆それが滴[シタタ]ッて二郎の顔を撲[ウ]たぬようにと気を配ッて片手は目を掩[オオ]わぬばかり﹆やゝ刃[ヤイバ]を下[クダ]しかけましたが、しかし肉と骨とは溶けて離れるようです。
「そこの首級[シルシ]を携[タズサ]えて御門にこの身の真心を切[セ]めて一言[ヒトコト]なりと聞[キコ]え参らせ、さてしも後[ノチ]は同じ刃、同じ刀に死ぬばかりよ。妹背の中はかわらじな。浮世の道は扨[サテ]いと憂き」。
今にその首から血も出ましょうか。今に男の命も絶えましょうか。あゝ斯[コ]う活[イ]きているものを。暫時[シバシ]刃は仇[アダ]にさまよッて晃[キラ]めいています。
その内に、無残、勇気!にわかに始まる泣声、物音。
「た……た……たれ……二郎を斯[カ]く」。跡はもろともに唸[ウナ]る声。
また暫時[シバシ]、物音も絶えました。物音の絶えるや否や慌[アワ]ただしく戸際[トギワ]へ馳出[ハセダ]して人でもいるかと見回わした蝴蝶の顔のその凄さ(あゝ殺した)、忍寄[シノビヨ]る暁の青い朦朧[オボロ]に映っては、顔色は全く土と見紛うばかり、たゞその代りこッてりとした鮮血の紅[ベニ]を縦横に塗ッていて……御覧なさい、嚙[カ]まれている乱髪[ミダレガミ]の末[スエ]一二本。既[スデ]に仕留[シトメ]てしまいました。今更無念なようでもあり、悲しいようでもあり、くやしいようでもあり、また情ないようでもあり、気は逆上してほとンど知覚もなくなってただ茫然……ですが、猶思詰[オモイツ]めた一ツの念力、火のように熱する身と切れて続かぬ忙[セワ]しい息を辛[カロ]うじて奨[ハゲ]まして終[ツイ]に首をば斬放[キリハナ]してしまいました。
が、はや身はほとんど打たれたようです。何を見ても目は目の役をせず、何を聞いても耳は耳のつとめを仕遂げず、それで、妙です、猶何処か神経が鋭敏に過ぎるような処もあります。

というところで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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