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#1015 早くに世の苦を知る者は、天もおのずから利発に生む

それでは今日も尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔』を読んでいきたいと思います。

谷陰にひっそりと佇む庵……茅葺は黒ずみ、壁は破れ、竹縁は踏み抜けそうです。ここには暦日がなく、昼は木を伐る音に暮れ、夜は猿の声に更けます。そんな庵に、ひとりの比丘尼が訪れます。どうやら、慣れぬ山道に迷ったようで、一晩泊めてほしい、とのこと。21歳の主人が見るところ、客人は、ねたましく思うほどの容色で、自分よりも2歳ほど若くみえます。客人が主人を見ると、世に捨てらるべき姿、世に飽くといふ年で、自分の成れの果てかと思います。主人も客人も互いに一様の思いはありますが、言い出す機会がありません。夜が更け、梟が鳴き、狼の遠吠えが聞こえます。和紙で出来た蚊帳を吊り下ろして、ふたりは寝ることに……。主人のいびきが微かに聞こえてきますが、客人は目を閉じても心は冴えて眠れません。枕辺には、行燈の火影に、今は蚊帳となったかつての書き置きが映り、目に入ります。客人はその書き置きを読むことにします。どうやら、内容は、戦場へ赴く男が相手の女性にしたためた手紙のようです。涙ながらに読み終え、改めて手紙を見ると、筆跡が知っている人に似ています。そんなタイミングで主人が目覚めます。客人は書き置きを読んだことを伝え、たずねます。「この書き置きの宛名の『若葉』とは、あなたの俗の名では」「はい、若葉と申しました」「そのお姿では、まさしく討ち死になされた事と……」「仰せの通り、武士の手本となるような、目覚ましい最期を遂げた、とのこと」。涙ながらに語り合い、今度は主人が、客人に、尼となった物語をうながします。客人も、夫と死に別れ、尼となり、同行もなく行脚していたところ、道に迷い途方にくれ、この庵に辿り着いたといいます。そして、主人の優しい心・言葉が姉様のように思われ、そばに置いてほしいといいます。主人はその言葉を受けて、私も親身の妹にでもあったようだと答えます。そして、御覧のとおりの暮らしだが、辛抱できるのならおいでと言います。すると、客人は、さきほどの書き置きに関する疑問を主人にぶつけます。夫から尼になるなら未来までの縁を切ると言われたのに、どうして尼になったのか、と。それに対して主人は答えます。七生まで縁を切られても、どうして二度の夫が持てるのか、自害をするなとも言われ、さりとて生き甲斐もない身……しかも、夫は私同様、両親と死に別れ、縁者はいない……しかも合戦とはいいながら人の命を取った夫……あの世で仏様がお許しなさるはずはなく……私が出家いたした為、あの世の夫が少しでも助かるなら連れ添う女房の役目……。出陣の前日、めでたく帰るを待っていよ!という夫の一言が恨めしくてなりませぬ!鎧櫃の中には、討ち死にの覚悟と書かれた、この書き置き……それを前日に話して下さったら何の未練がありましょう!夫の目の前で自害を遂げ、冥土で待っておりましたのに!見るも汚らわしい!その場で引き裂いてしまいました!女というものは、愚痴なものでござります。人様にまで恨みがましい事を申すほどの夫が、なぜまたこのように恋しいことでござりますやら。お経を読んでも上の空、如来さまのお顔まで夫の顔に見えまして、胸の休まる暇はございませぬ。このとおり書き置きの紙帳に張って、見ては思い出し、夫と添い寝をいたす思い。早く今にもあの世へ参って、夫と一緒に苦艱を受けてみとうございます。夫が討ち死にしたあと、お家はついに断絶して、館の跡は今、枯野の姿でございます。話を聞いた客人は次のように答えます。

⦅お主様[シュウサマ]まで御滅亡[ゴメツボウ]とは。重ね/\のお不仕合[フシアワセ]。そのお歎[ナゲ]きは御尤[ゴモットモ]で御坐ります……とはいふものゝやッぱり前の世からの約束事。過去[スギサッ]た昔は長い夢とお断念[アキラメ]遊ばして。煩悩をすてゝ一心に御廻向[ゴエコウ]遊ばすが何よりと存じます。今更どの様にお歎きあそばしても。死なれた方[カタ]の生帰[イキカエ]るではなし。今までの迷[マヨイ]をお霽[ハラ]しなされて。心からの出家を遂げ。仏様にお仕え遊ばすがお連合様[ツレアイサマ]の為には。此上[コノウエ]もない弘誓[グゼイ]の船で御坐ります。あなたに御異見申上[ゴイケンモウシアゲ]る私[ワタクシ]では御坐りませんが。親身の妹[イモト]がお身の為を思ツて。申す事と思召[オボシメ]し。かならず小ざかしい-さしでものと。おさげすみなされて下さりますなエ⦆

「弘誓の船」とは、衆生救済の誓いによって仏・菩薩が悟りの彼岸に導くことを、船が人を乗せて海を渡すのにたとえた語です。

主人[アルジ]の胸を射透[イトオ]す意見。其中[ソノウチ]には理を籠め。実を含む。これが廿歳[ハタチ]に足らぬ乙女の口からか。寒地[カンチ]の花は盛[サカリ]待つ。莟[ツボミ]の間[アイダ]きる毛衣[ケゴロモ]。早く世の苦を知る者は。天も自[オノズ]から理発[リハツ]に生む。
⦅御心切に……おつしやッて下さいました。仇[アダ]や疎[オロソカ]には思ひませぬ⦆
⦅私[ワタクシ]風情の言葉を……難有[アリガタ]うぞんじます⦆
主人[アルジ]の尼は涙に冷[ヒ]ゆる目元を。気味悪げに押拭[オシヌグ]ひ
⦅先程から手前勝手な事ばッかり申して……どゥぞあなたのお身の上をもお聞かせ遊ばしまし。御苦労になる事は及ばずながらまた私[ワタクシ]が。お慰[ナグサ]め申したうぞんじます⦆
今まで泣きしは人の身の上。主人[アルジ]が優しき言葉に。新[アラ]ためて我とわが身をなく涙。無言に萎れ返る。其[ソレ]も暫時[シバシ]。⦅えェ今となッて心弱い⦆自ら励まして。
⦅左様ならお聞下さりまし。かういふ訳でござります⦆

というところで、「奇遇の巻」は終了します!

さっそく次章へと移りたいのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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