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#587 坊やはいい子だ ねんねしな

それでは今日も山田美妙の『花ぐるま』を読んでいきたいと思います。

第九回は、浅草の年の暮れの様子から始まります。

年齢[トシ]を着物と共にあらためる嬉しさ、そのためには小児[コドモ]もまだ回らぬ舌ながら「御暮[オクレ]が過ぎたら」の小歌をしやぶッて紙鳶[タコ]や羽子[ハネ]の稽古にヒヾを切らし﹆また日和[ヒヨリ]を逃がすまいと天気予報に充分の責任を着せ掛ける後[オク]ればせの家、思切[オモイキ]ッてばた/\煤[スス]はらひを始め出せば、早くも出入[デイリ]の蕎麦屋が夜の注文を予察[ヨサツ]します。

「御暮が過ぎたら」は幕末から明治初期にかけて流行した「しりとり唄」です。

牡丹に唐獅子 竹に虎 虎をふんまえ 和藤内
内藤様は さがり藤 富士見西行 うしろ向き
むき身蛤 ばかはしら 柱は二階と 縁の下
下谷上野の 山かずら 桂文治は 噺家で
でんでん太鼓に 笙の笛 閻魔はお盆と お正月 
勝頼様は 武田菱 菱餅 三月 雛祭
祭 万燈 山車 屋台 鯛に鰹に 蛸 鮪
ロンドンは異国の 大港 登山駿河の お富士山
三べんまわって 煙草にしょ 正直正太夫 伊勢のこと
琴に三味線 笛太鼓 太閤様は 関白じゃ
白蛇のでるのは 柳島 縞の財布に 五十両
五郎十郎 曽我兄弟 鏡台針箱 煙草盆
坊やはいいこだ ねんねしな 品川女郎衆は 十匁
十匁の鉄砲 二つ玉 玉屋は花火の 大元祖
宗匠のでるのは 芭蕉庵 あんかけ豆腐に 夜たかそば
相場のお金が どんちゃんちゃん ちゃんやおっかあ 四文おくれ
お暮れが過ぎたら お正月 お正月の 宝船
宝船には 七福神 神功皇后 武内
内田は剣菱 七つ梅 梅松桜は 菅原で
わらでたばねた 投げ島田 島田金谷は 大井川
かわいけりゃこそ 神田から通う 通う深草 百夜の情
酒と肴は 六百出しゃ気まま ままよ三度笠 横ちょにかぶり
かぶりたてに振る 相模の女 女やもめに 花が咲く
咲いた桜に なぜ駒つなぐ つなぐかもじに 大象とめる

『花ぐるま』の続きを読んでいきましょう!

溜めた胸繰[ムネクリ](臍繰[ヘソクリ]は老女、乳繰[チチクリ]ハ不潔、そこで処女[ショジョ]のは変ッて胸[ムネ]くり)をば海防費の献金もどきに抛[ナゲウ]ッて新形[シンガタ]知盛[トモモリ]の羽子板[ハゴイタ]を身請[ミウケ]したまゝいそ/\抱[ダ]いて帰るのハ問はずとも三桝[ミマス]に心をはかり取られて居る愛敬者[アイキョウモノ]で﹆また新年に貰ふ小使銭[コヅカイ]をば自転車の外[ホカ]何[ナン]につかはうかと亡[ナ]くなすのに気骨[キボネ]を折るのハかならずしも亀の甲に灸[キュウ]をすゑるまでも無く、学校では毎[イツ]でも体操にばかり満点を取る未来の博士[ハカセ]です。

「溜めた胸繰」のところは下品な言い回しですねぇ〜w元ネタがどこかにあるんでしょうか…

海防献金とは、1887(明治20)年の明治天皇の海防費下賜を契機に、全国に広がった献金運動のことです。この海防費調達の目的で、同じ1887(明治20)年に導入されたのが「所得税」です。

知盛とは、平知盛[タイラノトモモリ](1152-1185)のことです。知盛は自害にあたり、「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残して、船の錨をかついで入水したと言われています。入水後に浮かび上がって晒し物になる辱めを受けるのを避ける心得です。この伝説に着想を得たのが歌舞伎の『義経千本桜』の「大物浦[ダイモツノウラ]」の場面でして、別名「碇知盛[イカリトモモリ]」とも呼ばれています。知盛が崖の上から錨と共に仰向けに飛込む場面がクライマックスとなっていますが、薙刀を振り回し鎧を血染めにしたリアルな演技で絶賛されたのが、九代目市川団十郎(1838-1903)です。この市川団十郎の屋号が成田屋、定紋は三升[ミマス]です。大中小の升を入れ子に重ねた形をしておりまして、「三桝」と書いてあれば、すなわちそのまま市川団十郎のことを指します。

「亀の甲」とは、灸をすえた跡のことのようです。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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