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#636 かきみだれる愛と情けと嬉しさ

それでは今日も山田美妙の『蝴蝶』を読んでいきたいと思います。

「その二」は、壇ノ浦の戦いの最中、海に落ちた蝴蝶が、浜に流れ着いたところから始まります。生暖かい浦風、黒松の根に蝴蝶は裸体のまま腰を掛けています。濡れ果てた衣を半身に纏った状態で、海のかなたを見渡しても、御座船の影さえ見えません。乙女のあどけなさ、裸体を人に見られる恥ずかしさから何の思慮もなく、しばらくは松の根に腰をかけているところへ、鎧の袖のかみあう音が聞こえます。驚いて見返ると、蝴蝶も知っている平家旗下の二郎春風という武者です。

駭[オドロ]きましたが逃げられません。逃げたくはありますが身は縮みます。俄[ニワカ]に顔は……はてどうでも宜[ヨ]いのに……潮路[シオジ]の紅[ベニ]を借りて来て……見れば、今日を晴[ハレ]と粧[ヨソオ]ったその武者ぶりの奥床しさ、村濃[ムラゴ]の鎧に白の鉢巻、目は涼しく、口は潤[ウルオ]って……

「村濃」とは、同じ色でところどころに濃淡のあるものを意味します。

「思掛[オモイガ]けぬ……蝴蝶ぬし、御身[オンミ]のみにてましますか」。あゝ身が慄[フル]えます、近寄らずに二郎は尋ねます。
返辞はありませんので二郎は重ねて、
「見たまえや、この身も落ちて来ぬるを。主上[シュジョウ]は如何[イカ]にならせたまいし」。
「御幸[ミユキ]ますとてなりしが」、声は微[カス]かに蝴蝶の口を忍び、「恙[ツツガ]のう在[オワ]せしならん」。
「御幸。いずくへ」。
「人無き里、伯耆わたりや過ぎ玉わむ」。
二郎は勇立[イサミタ]ちました。
「さらば、蝴蝶ぬし、やよ心なしたまいそ。如何に御跡[ミアト]を尋ねまいらすべきに、打連[ウチツ]れて、君もろともに」。
下を向いて慄[フル]えている蝴蝶の横顔、さしのぞけば愛と情[ナサケ]と嬉しさとに掻乱[カキミダ]されて涙は湧返[ワキカエ]るばかりです。「あな、いみじきお姿」。思わず出した二郎の声、さてその声を見送るのか、怨めしげに光りを凝[コ]らす蝴蝶の眼[マナコ]、手弱[タヨワ]くも横へ向く二郎の眼。

というところで、「その二」が終了します!

さっそく、「その三」へと移りたいのですが…

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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