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#655 山田美妙がまとめる坪内逍遥の経歴

それでは今日も山田美妙の『明治文壇叢話』を読んでいきたいと思います。

今日から山田美妙の交友録は、この作家へと移ります。

第二 春のや朧[オボロ]大人[ウシ]

ふたりの関係が良好だったころに書かれたものですね。そんな切ない気持ちを抱きながら、早速、坪内逍遥に関する話を読んでいきましょう。

春のや朧大人(坪内雄蔵氏)は安政六年美濃国太田駅代官所に生る。

ここでいう「駅」とは「宿[シュク]」という意味です。

其[ソノ]父は尾張藩の士族なり。十歳の時父と共に名古屋の近在に移る。明治七年同所なる愛知県外国語学校に入り英語を学ぶ。同九年東京開成学校に入り後に東京大学に転ず。同十六年卒業して学位を得[ウ]。同年東京専門学校に聘せられて今尚[ナオ]かしこに講師たり。此年[コノトシ]より同十九年迄[マデ]三年間は教授と著作との間に昼夜を分[ワケ]てり。シェークスピヤの「シーザル」の翻訳は其最初[ソノサイショ]の筆[ヒツ]也[ナリ]。「小説神髄」といふ論文も同時の著述なり。(出版は十八年也)其他[ソノタ]リットン氏の「リエンジー」の翻訳(不結局)、小説「書生かたぎ」、寓意談「京わらべ」、翻訳「アダム、ローラン伝」、「未来の夢」といふ内地雑居[ナイチザッキョ]に関する小説(不結局)、「妹背[イモセ]かゞみ」といふ自由結婚と関渉[カンショウ]結婚に関する小説等相次[アイツイ]で出[イ]づ此頃[コノコロ]また「今日[コンニチ]新聞」「女学叢誌[ジョガクソウシ]」「政学講義会」「中央学術雑誌」「読売新聞」等に関係し又専門学校の外[ホカ]に私立学校二ヶ所を教ふ。

リットンは『当世書生気質』の中でも話題にされています。#195を詳しく読んでみてください。

「今日新聞」は1884(明治17)年、小西義敬によって日本初の本格的夕刊紙として創刊された新聞で、初代主筆は仮名垣魯文(1829-1894)です。1888(明治21)年には、「みやこ新聞」に改題し朝刊紙に切り替え、翌年から「都新聞」と漢字に改めます。1942(昭和17)年、新聞事業令により國民新聞と合併して、現在の東京新聞となりました。

『女学叢誌』は1885(明治18)年に績文舎から発行された女性誌です。

十九年の夏妻を娶る。同二十一年「政学講義会」及び「読売新聞」の外[ホカ]に暫[シバラ]く「絵入朝野[チョウヤ]新聞」「浪花新聞」「新潟新聞」「学芸雑誌」等に関係す。又春のやの名義にて「浮雲」といふ小説を出す。但[タダ]し之は二葉亭氏の作にして自著に非ず。此[コノ]年の間従前[ジュウゼン]の諸学校の外[ホカ]に成立学舎といふ私立学校を教ふ。また「読売新聞」の小説を担当す。同二十一年「読売新聞」を退き専ら教授に従事す。同年末「国民之友」の為に「細君」といふ端物[ハモノ]を綴る爾来[ジライ]、著作無し。

成立学舎は、明治初期から半ばにかけて、英語を主として教授し、今日の予備校の形態をとる中等教育機関です。在籍した生徒には、黒岩涙香(1862-1920)、夏目漱石(1867-1916)、新渡戸稲造(1862-1933)などがいます。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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