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#512 少し前の戦争とは、おそらく…

それでは今日も山田美妙の『武蔵野』を読んでいきたいと思います。

今は賑やかな東京ですが、かつて戦国の世では、武蔵野でも戦があり、見るも情けない死骸が数多く散っています。しかし、当時の武蔵野は何もないところで、葬る和尚もなく、退陣の時に積まれた死骸の塚には、血だらけになった陣幕などがかかっています。鳥や獣に食われたり、手や足がちぎれていたり、首さえないのも多い。これらの人々にも懐かしい親や可愛らしい妻子があったろう。なのに、刃の串につんざかれ、矢玉の雨に砕かれて、口惜しさはどれほどだろうか。では生きているうちは栄華をしていたかというと、百姓や商人は、なかなかそうはいかないだろう。鋤鍬や帳面以外に手に取った事がない者が、「さあ戦だ」と駆り集められて、陣鉦や太鼓に急き立てられて修羅の街へ出掛ければ、野原でこのありさまとなる。時は、秋の午後4時ごろ、山のはしが茜色の光線を吐き始め、野のはずれが薄樺色の隈を加え、遠山が紫になり、原の果てに逃げ水をこしらえる頃、西のほうから二人の武者が歩いてきます。ひとりは軍事に慣れたような出で立ちの五十前後の男、もうひとりは十八九の若武者で、こちらも雑兵ではない様子。奥州街道から外れた現在の九段あたりに踏み込むと、ここらへんにも先の戦争の陣が張られたとみえて、ちぎれた幕などが死骸とともに飛び散っている。その幕を取り上げて紋所を確認すると足利の定紋のようで、戦の跡を取り収める人もなく…

「女々しいこと。何でおじゃる。思出[オモイダ]しても二方[フタカタ](新田義宗[ニッタヨシムネ]と義興[ヨシオキ])の御手並[オンテナミ]、さぞな高氏[タカウジ]づらも身戦[ミブルイ]をしたろうぞ。あの石浜[イシハマ]で追詰められた時いとう見苦しくあッてじゃ」。

これが美妙のいう、慶長頃の俗語に足利頃の俗語を混ぜた言葉ですか…

#059で、坪内逍遥の『小説神髄』で説明されている「時代小説を書く上での注意点」を紹介しましたが、そこでは、「年代の齟齬」「事実の錯誤」「風俗の謬写」を挙げていましたね!難しいのは、時代小説を書く時に、話し言葉もその時代に合わせる必要があるのか、ですよね…

そもそも、そんなことが可能なのかが、一番の問題なんですが…w

「足利」「新田義宗」という人名から、おそらく、「些[スコ]し前の戦争」とは1352(正平7)年の「武蔵野合戦」のことでしょうね。足利尊氏(1305-1358)ら北朝方の軍勢と、新田義宗(1331?-1368)・新田義興(1331-1358)ら南朝方の軍勢との間で行われた合戦ですね。

明治の人は、ここまで読んで「こりゃ武蔵野合戦のことだ!」ってわかったんでしょうかね…w

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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