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#510 ふたりの武者のいでたち

それでは今日も山田美妙の『武蔵野』を読んでいきたいと思います。

今は賑やかな東京ですが、かつて戦国の世では、武蔵野でも戦があり、見るも情けない死骸が数多く散っています。しかし、当時の武蔵野は何もないところで、葬る和尚もなく、退陣の時に積まれた死骸の塚には、血だらけになった陣幕などがかかっています。鳥や獣に食われたり、手や足がちぎれていたり、首さえないのも多い。これらの人々にも懐かしい親や可愛らしい妻子があったろう。なのに、刃の串につんざかれ、矢玉の雨に砕かれて、口惜しさはどれほどだろうか。では生きているうちは栄華をしていたかというと、百姓や商人は、なかなかそうはいかないだろう。鋤鍬や帳面以外に手に取った事がない者が、「さあ戦だ」と駆り集められて、陣鉦や太鼓に急き立てられて修羅の街へ出掛ければ、野原でこのありさまとなる。時は、秋の午後4時ごろ、山のはしが茜色の光線を吐き始め、野のはずれが薄樺色の隈を加え、遠山が紫になり、原の果てに逃げ水をこしらえる頃、西のほうから二人の武者が歩いてきます。

一人は五十前後だらう、鬼髯[オニヒゲ]が徒党を組んで左右へ立別[タチワ]かれ、眼の玉が金壺[カナツボ]の内ぐるわに楯籠[タテコモ]り、眉が八文字に陣を取り、唇が大土堤[オオドテ]を厚く築いた体[テイ]、それに身長[ミノタケ]が櫓[ヤグラ]の真似して、筋骨[スジホネ]が暴馬[アレウマ]から利足を取ッている塩梅[アンバイ]、どうしても時世に恰好の人物、自然淘汰[シゼントウタ]の網の目をば第一に脱[ヌ]けて生残[イキノコ]る逸物[イチモツ]と見えた。

坪内逍遥の『当世書生気質』でもダーウィンに関する言及がありましたね。#160で、ちょっとだけ明治時代の進化論について紹介しています。

その打扮[イデタチ]はどんなだか。身に着いたのは浅紺[アサコン]に濃茶[コイチャ]の入ッた具足[グソク]で威[オドシ]もよほど古びて見えるが、ところどころに残ッている血痕[チノアト]が持主の軍馴[イクサナ]れたのを証拠立てゝいる。兜[カブト]はなくて乱髪[ランパツ]が藁[ワラ]で括[クク]られ、大刀疵[タチキズ]が幾許[イクラ]もある蠟色[ロイロ]の業物[ワザモノ]が腰へ反返[ソリカエ]ッている。手甲[テコウ]は見馴[ミナ]れぬ手甲だが、実は濃菊[ジョウギク]が剝[ハ]がれているのだ。この体[テイ]で考えればどうしてもこの男は軍事に馴れた人に違[チガイ]ない。
今一人は十八九の若武者と見えたけれど、鋼鉄[ハガネ]の厚兜[アツカブト]が大概顔を匿[カク]しているので十分にはわからない。しかし色の浅黒いのと口に力身[リキミ]のある処[トコロ]でざッと推[スイ]して見ればこれも屹[キッ]とした面体[メンテイ]の者と思われる。身長[ミノタケ]は酷[ヒド]く大きくもないのに、具足が非常な太胴[フトドウ]ゆえ、何となく身の横幅が釣合[ツリアイ]わるく太く見える。具足の威[オドシ]は濃藍[コイアイ]で、魚目[ウナメ]は如何[イカ]にも堅そうだし、そして胴の上縁[ウワベリ]は離山路[ハナレヤマミチ]で簡単[アッサリ]囲まれ、その中には根笹[ネザサ]のくずしが打たれてある。

「根笹のくずし」とは、紋所の一つです。

腰の物は大小ともに中々見事な製作[ツクリ]で、鍔[ツバ]には、誰の作か、活々[イキイキ]とした蜂[ハチ]が二疋[ニヒキ]ほど毛彫[ケボリ]になッている。

毛彫は、毛のように細い線で模様を彫る彫金技法の一つです。

古いながら具足も大刀もこのとおり上等な処で見るとこの人も雑兵[ゾウヒョウ]ではないだろう。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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