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#649 浅草でバッタリ出会った美妙と學海

それでは今日も山田美妙の『明治文壇叢話』を読んでいきたいと思います。

美妙は、徳富蘇峰・森田思軒・朝比奈知泉の三氏から、「文学会を組織しよう」という手紙をもらい、1888年9月8日、芝公園の三緑亭へと赴きます。午後五時半、出席の第一番は依田學海、依田は時間を間違えない性格のようで、会の集まりには誰よりも早く来るみたいで…。その後、続々と、坪内逍遥や森田思軒など、総勢11人が集まります。依田氏は、こういう集まりの時には、誰よりも早く来る性格のようで、依田氏が会合にいれば、場が賑やかになるそうで…。しかも禁酒禁煙で、芸妓に冗談すら言わない性格のようです。そんな依田氏と美妙には、些細な噴き出す話があるようで…。

日本演芸協会の技芸下[ギゲイシタ]演習が浅草の奥山閣[オウザンカク]にあッて行く時は夜遅くもならうと思ッて居たところ、案外に、下演習[シタエンシュウ]の捗[ハカ]が行ッて午後三時頃に了[オワ]りました。車は帰して無し、ひとり飄然[ヒョウゼン]と公園内を散歩して居るところで依田氏と一緒になりました。

材木商って儲かってたんだなぁと思う話がありまして…

1853(嘉永6)年に、千駄木の植木商・森田六三郎が牡丹と菊細工を主とした2400坪の植物園「花屋敷」を開園させます。これがのちの遊園地「浅草花やしき」へと変貌していくのは、1885(明治18)年に材木商で長谷川如是閑(1875-1969)の父である山本徳次郎とその長男・松之助が経営を引き継いでからです(ちなみに如是閑は次男です)。トラやクマなどの動物を飼育公開し、遊戯機器を設置し、見世物を展示し、そして1888(明治21)年4月に登場したのが、地上4階地下1階建てのランドマーク「奥山閣」です。かつて浅草寺の裏手は「奥山」と呼ばれていました。楼閣のてっぺんには金色鳳凰像が設置されていたことから「鳳凰閣」とも呼ばれており、地下部分は煉瓦造り、地上四層は唐木三大銘木といわれる紫檀[シタン]・黒檀[コクタン]・鉄刀木[タガヤサン]などが贅沢に使われていたそうです。この楼閣も元々は、本所深川の材木商・信濃屋の丸山伝右衛門が邸内に建てたもので、御用商人を外され凋落したため、山本松之助が花やしき内に移築したそうです。この2年後の1890(明治23)年11月に竣工したのが通称「十二階」と呼ばれた浅草のランドマークである12階建て眺望用高層建築物「凌雲閣」ですが、この「凌雲閣」と同様、1923(大正12)年9月1日の関東大震災で「奥山閣」は崩れ落ちたそうです。

主[アルジ]は往来は見馴れて面白くないといふところから小意気[コイキ]な家づくりのある細道を縫ふやうにして人が聞かぬだけに冗口[ムダグチ]を言ッてやがて路次[ロジ]から広小路へ出ました。最も賑[ニギヤカ]なのは依田氏でした。たちまち此処[ココ]に於[オイ]て演劇を論ずるかと思へば忽ち其処に於て小説論を叩くなど非常に席に快話[カイワ]の色を添へました。やがて年齢の話しがはじまる。私の若年を見て一つ二つ依田氏も冗談を言ひました。最後久米幹文[モトブミ]氏の側[ソバ]へ行ッて大声に又その話と為[ナ]りました。

ちなみに1888年当時、山田美妙は20歳、依田學海は54歳でした。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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