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#592 身体の半分は麻酔薬、半分はコーヒー

それでは今日も山田美妙の『花ぐるま』を読んでいきたいと思います。

第九回は、浅草の年の暮れの様子から始まります。歳の市の賑わい…蕎麦屋も、子供も、せわしない様を見せています。植木屋も煮豆屋も貸本屋も皆忙しくしているなか、休みが近くなった書生だけは暇を持て余しています。本郷真砂町をぶらぶら歩いている力造さん。衣服もベラベラで、古びた帽子を目深にかぶっています。どうやら、先日乗せた女性の家を探しているようで、目星をつけた家の表札を見ると、自分の学校の先生と同じ名前「杉田」と書かれています。

何処[ドコ]と無く鳩尾[ミズオチ]の辺[ヘン]が軽くゑぐられるやうな胸の騒ぎ、何故[ナゼ]でと聞かれたら云〻[コレコレ]だと答へる子細[シサイ]は有りませんが、しかし手放しにして置けば際限も無くごたつき出すやうで、たゞ何だか変です ー もし、変ですといふ言葉に此時[コノトキ]の景色を描尽[エガキツ]くさせたものとすれば。
茫然[ボウゼン]…まるで身躰[カラダ]を半分に別[ワ]けて半分は麻酔薬を齁[カ]がせ、半分は咖琲[カヒイ]を呑[ノ]ませたといふやうな茫然、なぜなら神経は俄[ニワカ]に鋭くなッたやうでもあり、また酷く鈍くなッたやうでもありますから。

1858(安政5)年に日米修好通商条約が結ばれると、コーヒー豆の輸入が開始されました。1888(明治21)年4月13日、鄭永慶(1858-1894)が日本で最初の本格的コーヒー店「可否茶館」を上野の西黒門町に開店します。コーヒーを一銭五厘、牛乳入りコーヒーを二銭で売っていました。1887(明治20)年当時のそばが一銭くらいの値段だったので、庶民でも手が届くけど少し高級な飲み物でした。商売はうまくいかず、可否茶館は5年足らずで閉業することとなります。

コーヒーの輸入量は1877(明治10)年に、はじめて18トンが輸入され、1888(明治21)年頃に60トン程度に増え、1907(明治40)年頃になって80トン程度にはなりましたが、とても一般の人々に普及する量ではありませんでした。

多少片呼吸[カタイキ]に為[ナ]ッて末期[マツゴ]の水を望んで居るらしい廉恥[レンチ]の心、それがやうやく喙[クチバシ]を容[イ]れたと見えて、人にをかしく思ハれてはいけないと足はやがて吸付[スイツ]けられた糊[ノリ]を離れて、搆[カマエ]の前を通過[トオリス]ぎやうとすると、更にまた奇を好む眼は忽[タチマ]ち垣根越[カキネゴシ]に庭の中へ注込[ソソギコ]みました。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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