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#658 山田美妙と二葉亭四迷の最初の出会い

それでは今日も山田美妙の『明治文壇叢話』を読んでいきたいと思います。

これまで依田學海、坪内逍遥との交友が紹介されてきましたが、最後に紹介されるのは…

長谷川辰之助氏

です。

長谷川辰之助は二葉亭四迷の本名です。

長谷川氏の賢父[ケンプ]とわたしの父とは共に久しい馴染[ナジミ]でした。其前[ソノマエ]長谷川氏一家も地方に居て、そして辰之助氏だけ東京に留学してる頃でした。わたしの父が上京して辰之助氏と私とを一間[ヒトマ]に集めてしたしませた事が有りました。

え?美妙と四迷にそんな関係があったんですね!

而[シカ]も今から八年前、明治十六年の夏のはじめ、席に茶菓[サカ]だけを置いての閑話[カンワ]でした。其時[ソノトキ]の辰之助氏は木綿濃藍[モメンコアイ]の上衣[ウワギ]に皀染[クロゾメ]の羽織、小倉袴[コクラバカマ]に日和下駄[ヒヨリゲタ]また私は二子袷[フタゴアワセ]の上衣に紫のしごき、一も二も無く二人とも書生体[ショセイテイ]とは誰にも見える打扮[イデタチ]でした。其時[ソノトキ]辰之助氏は魯西亜[ロシア]語を修めそして私は英語を学んで居た。

外交官を目指していた四迷は、1881(明治14)年、東京外国語学校(現・東京外国語大学)露語科に進学します。そのころ、美妙は東京府第二中学校で、のちに伊藤博文内閣の内閣書記官を務める長鮫島武之助(1848-1931)から英語を学んでいます。

二人語学の相違は飛んだ会話をはづませる種[タネ]でした。文法、文脉[ブンミャク]のところまでは二人も言葉を交へました。が、一点も文学といふ処には話し及びませんでした。たゞ、これだけの注意が長谷川氏から出ました。「私の方の教科書は小説が主[シュ]です」あゝ今から思へば!

あぁ~今から思えば!!

会話の模様では氏は利弁[リベン]といふ方でも無いもののまた訥弁[トツベン]といふ程でも有りませんでした。別に考へ/\話す方でも有りませんでした。其内[ソノウチ]に ー 何の張り合ひからか今は忘れましたが ー 突然、はなしが軍事にうつるとさていづれも少年、肱[ヒジ]を張ッてはなし出しました。「軍人は面白う厶[ゴザ]いませうな」と言つた辰之助氏の言葉は猶今日[コンニチ]の耳にも残りました。
再会を契[チギ]ッて袂[タモト]をわかッてそれから二人とも取りまぎれて思はずの内[ウチ]に音信を絶ちました。やがて明治十八年の秋でした。突然長谷川氏は賢父[ケンプ]とつれだッて尋ねて来ました。その時は急ぎとの事でほんの門口[カドグチ]だけの挨拶でしかも夕暮[ユウグレ]、帰りましたが、私の目にとまッた一種の奇異が有りました。辰之助氏の身長が二年前見た時よりは非常に高くなッて、そして態度がすこし重々[オモオモ]しく為[ナ]ッて来たことです。「はてな、大人に為[ナ]ッた」。かう自分でつぶやいたのは忘れもしません。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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