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#642 蝴蝶、またの名を「哀れと薄命」

それでは今日も山田美妙の『蝴蝶』を読んでいきたいと思います。

月が山にかかっている二十三夜、すこし前まで降り続いた五月雨、かよわい風に梢の雫も落ちてまた雨となります。貧しい草の屋が建っており、壁に矢じりを打ち付けて衣服が吊るされています。時は夜更け…ひとりの男と、ひとりの女が座っています。男は二郎春風、女は蝴蝶です。夫婦となって三年ほど、ここで二郎春風は衝撃の告白をします。自分は、平家の譜代ではなく、源氏の忍びの者である、と。蝴蝶は答えが出ません。女であるが武家の片端、男であるが帝の怨敵、おのれっ二郎!夫を殺す罪…これも帝のため!涙を荒々しく拭いながら、刀を持ち、固唾をのんで近寄る夫の枕元、昨日までは病を撫でた手も、今こそは身を裂く手となろう…。気は逆上して知覚もなくなり、火のように熱する身、せわしい息、ついに首を斬り放してしまいました。

首を取りましたが抱占[ダキシ]めたばかり、声を惜[オシ]まず泣出したそのいじらしさ、実に意地ほど恐ろしいものはありません。
やゝ昇ッて来る旭日も昨日までは勇ましそうに見えましたのに今日はそれも幽鬱[ユウウツ]であるようです。やゝ啼出[ナキダ]す鳥も昨日までは猶比翼[ヒヨク]の情に咽喉[ノド]を鳴らして夫婦つれだっていましたに……哀れと薄命という言葉はつまり蝴蝶の又の名です。
人の話し声、発矢[ハッシ]、家の外に聞える人の話し声。風の音にも忙[イソ]がわしく耳をそばだてる今日の蝴蝶﹆蝴蝶もこれをよく聞けば(乱れたながらも本性違[タガ]わず)、これは主上[シュジョウ]の行宮[アングウ]のある辺[アタリ]の作男[サクオトコ]どもの話です。

「行宮」とは、天皇が行幸したときに設けられる仮の宮のことです。

それで何と言っていました。斯[コ]う言っていました。
「おンいたわしさよ、若宮の。定業[ジョウゴウ]にてや在[オワ]しけん、あえなくならせたまいつゝ」。
若宮が……ま、どうです、お崩[カク]れなさいましたとか。恥を忘れて蝴蝶も表へ飛出しました。
「物問いてん、方[カタ]ざまたち。いないな必ずうろたえたまいそ、たとい斯[カ]く浅ましき姿せるとて。さて若宮はッ」……
言えません、あとは些[スコ]しも。里人たちは素気[スゲ]もなく、
「昨日の朝の程[ホド]なりき、崩[カク]れさせたまいてき」

ん…そっか…壇ノ浦の戦いの最中に、知盛の息子が安徳帝の影武者として身代わりになったことを、蝴蝶は忘れているのかな…

というところで、「その三」が終了します!

さっそく、最終章の「その四」へと移りたいのですが…

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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