見出し画像

#1030 あなたはなぜ私という歴とした妻があるとおっしゃっては下さりませぬ!

それでは今日も尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔』を読んでいきたいと思います。

第三章は、小四郎が、館の別室で、先の合戦の傷を癒しているところから始まります。「御気分はいかがでござります」と芳野が介抱にやってきます。すると、芳野は「おめでとうございました。御祝言あそばしましたとやら……小四郎様……女と申す者は操が大事と申しますが、その様なものでござりますか。」……御台様の侍女を選んだ男……許嫁なのに振られた女……振った男を介抱する振られた女……。小四郎は答えます。「申すも愚か。女は操を守って両夫にまみえず。忠君は二君につかえず……」。芳野は呆れ顔で「私の申したことがお気にさわりましたか。そのような心で申したのでは御座りませぬ。女は両夫にまみえずと申しますが、殿御は沢山恋人をお持ちなされてもよろしいので御座りますか」。小次郎は答えます。「武士たるものにはあるまじき振る舞いで御座る。女とて忠義は忘れてはならず」。芳野は言います。「あなたは私は左近之助の娘ということを、お忘れあそばしましたのか」。「なにゆえにそのような事を……」「なにゆえとはお情けない!左近之助の娘なら、小さい折から浦松小四郎守真の許嫁の妻では御座りませぬか!あなたは左近之助に芳野という娘があることをお忘れあそばしたので御座りましょう!あまりといえばお情けない!」

守真は青く-こけたる手をさし出し。芳野が伏したる肩にかけて
⦅なンの其[ソレ]を……八幡[ハチマン]忘れは致さぬ⦆
肩に懸[カケ]られし。守真の手を握り詰め。
⦅なンとおッしやッても。現在私[ワタクシ]をお見捨[ミステ]遊ばして。外[ホカ]に言換[イイカ]はしたお方と……⦆
言ふに言はれぬ口惜[クヤシ]さは。涙と咽[ムセ]び声が物語る。暫時[シバシ]は其等[ソレラ]に物語らして
⦅男とて貞操[ミサオ]といふ事はあると。只今おッしやッたからは。夫[ソレ]はよく御存じのはづ……⦆
此処[ココ]でまた言葉を途切らし……途切らせしは。はしたなく言過[イイスゴ]さばと男の心をかぬる例の娘気[ムスメギ]。なるたけは柔らかに。しほらしくと心を配[クバ]れど。其人[ソノヒト]の顔見るからに恋はいやましに募り。募るほど恨[ウラミ]は一ト入[シオ]深し。恨[ウラミ]があればこそ言葉は恨[ウラミ]。言ふ事は思ふ事-思想の媒[ナカダチ]。鏡に花を翳[カザ]して月の影とは見えず。此[コノ]「自然」に逆らひて。泣くに笑ひ。怒[イカ]るに喜ぶは。世なれし曲者[クセモノ]の業[ワザ]なり。
⦅それ程御存じの筈……それをいかにお主様[シュウサマ]の命[オオセ]だとて……また御主様[シュウサマ]だとて人では御座りませぬか。鬼か蛇[ジャ]でヾもある様に。まるで情[ナサケ]を御存じない方[カタ]でも御座りますまい。たツて今の奥様をお勧め遊ばされたとき。小四郎様。あなたはなぜ私[ワタクシ]といふ……左近之助の娘芳野といふ。歴とした妻があると。おッしやッては下さりませぬ。いかに無理なお主[シュウ]だとて。其[ソレ]を推して縁切ッて。今の奥様をとお勧めなさるやうな事がありませうか……其様[ソノヨウ]な事が御座りませうか。母が話に聞きますれば。今の奥様はお主[シュ]の御台様[ミダイサマ]が御秘蔵[ゴヒゾウ]な……子のやうに御不敏[ゴフビン]がられるお傍[ソバ]の衆とやら。其方[ソノカタ]があなたをお慕ひ成[ナ]されて。死ぬほどに……他人さへ一命[イチメイ]かけて焦[コガ]れるものを。幼稚馴染[オサナナジミ]の私[ワタクシ]が。それに愚[オロソカ]が御座りませうか。御台様[ミダイサマ]もその心根[ココロネ]を不敏[フビン]に思召[オボシメ]し。お上[カミ]からのお言葉……おとり持[モチ]て。御縁組[ゴエングミ]なされたとの事。其時[ソノトキ]のそのお傍の衆の心持[ココロモチ]はまァどンなに……えェつ思出[オモイダ]しても口惜[クヤシ]う御座ります。御台様も御台様。御自分の御傍[オソバ]の衆が不敏なりや。私[ワタクシ]の心とて。不敏は同じ事。其方[ソノカタ]が死ぬほどなりや。誰[タレ]も死ぬほどに思ひますに。あなたの口から此々[コレコレ]と訳[ワケ]をお話し遊ばして。御辞退遊ばして下すッたら。いかに御主[シュ]の権抦[ケンペイ]づくでも。其[ソレ]を無理にとは。よもやおッしやりはなさるまい。其方[ソノカタ]とかねて深く言換[イイカワ]し。私[ワタクシ]のやうな不束[フツツカ]なものは厭[イヤ]におなり遊ばしたゆへ。言訳[イイワケ]もおつしやらず。御意[ギョイ]を幸[サイワ]ひに御祝言なされたので御座りませう。なンとで御座ります。小四郎様⦆

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?