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#632 船の端に来た頃には水煙が!

それでは今日も山田美妙の『蝴蝶』を読んでいきたいと思います。

海は軍船を床として、討ち死にした武士の骸が幾百と漂っています。猛将・平教経が源氏の旗下へ飛び込み、敵を蹴散らします。源義経は危ういと思い、旗下へ引き返しましたが、反動の力すさまじく、敵は安徳天皇が乗った御座船に近寄ります。安徳帝の女房どもは泣きたてて取りすがり、平家の柱石といわれた平知盛の唇もわななきます。知盛は拝謁するや否や引き返して敵に近付き士卒を励まします。敵はさらに御座船に近づきます。矢が雨のように降ってきます。いくさの様子を見ていた二位尼は御座船の奥の間へ主要な八人を呼び寄せます。八人のひとりである源典侍に従っている十七の官女・蝴蝶は立ち聞きをやめて、船の端に佇み四方を見まわし、再び奥へ戻ると、二位尼が安徳帝の手を引いて立っています。安徳帝が被っている衣を取り除けると、知盛の息子で蝴蝶は驚きます。二位尼に安徳帝のことを尋ねると、母の健礼門院とともに逃げたと言います。

「源氏入来[イリク]る、間[マ]もあらじ。刃[ヤイバ]にかゝるはうたてきを……蝴蝶、疾く疾く……いざ疾く疾く」。
二位は切[シキ]りに急立[セキタ]てゝ跡の蝴蝶の返事を耳にも入れず、何か錦の嚢[フクロ]に入ッた御剣[ミツルギ]めいた物を捧げながら右に主上(仮の)の御手[ミテ]を引き、早足に船端[フナバタ]にさしかゝれば……威[オド]しのためか……敵から来る箭[ヤ]は隙間もなく降注ぎます。
「のう、しばし待たせたまえ」。蝴蝶は跡から追ッて来ました。が、無残、及びません。蝴蝶が船端[フナバタ]まで来た頃には既にはや水煙[ミズケブ]りが……
「すわや入らせたまいしよ」。呟[ツブヤ]いたのはこればかり﹆流石に生死を構わぬ身にも又何処やら箭玉[ヤダマ]の雨は恐ろしく、急にまた踵[キビス]を返して横の船端から屹[キッ]と見れば、主上の影は見えませんが、源典侍[ゲンノナイシノスケ]たちが小舟に乗ッてはるか向うへ漕[コ]いで行きます。死ぬ気は蝴蝶もありません。追付[オイツ]いて供奉[グブ]がしとうございます。
片手は涙、片手は周章、急に一人の雑兵[ゾウヒョウ]を呼掛[ヨビカ]けて手を合わさぬばかり、
「逃れん。のう、漕ぎてたべ、小舟[オブネ]にて」。
命ぜられて雑兵も再議に及ばず直[スグ]に小舟を引寄せて蝴蝶を乗せて漕出しました。櫂[カイ]は折れてありません。仕方なく薙刀[ナギナタ]で一心不乱に漕ぎました。
前後左右は皆源氏です。が、わずかの仕合[シアワ]せ、皆御座船を目掛けますから落人[オチウド]も案外平易に逃れます。けれど肝を冷したのは幾度[イクタビ]ですか、浪も荒ければ四方[アタリ]に船も多く、思うようには進めません。それのみか、わるくすると典侍のいる船を見失います。折々は僅[ワズカ]の目を偸[ヌス]んで懐かしい今までの御座船を見返れば、その今日まで皇居とした御座船には雑人[ゾウニン]ばらが早[ハヤ]乱入して……きらめく剣戟[ケンゲキ]の影のするどさ。

というところで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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