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#1034 ならぬ恋かと思い乱れて……

それでは今日も尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔』を読んでいきたいと思います。

第三章は、小四郎が、館の別室で、先の合戦の傷を癒しているところから始まります。「御気分はいかがでござります」と芳野が介抱にやってきます。すると、芳野は「おめでとうございました。御祝言あそばしましたとやら……小四郎様……女と申す者は操が大事と申しますが、その様なものでござりますか。」……御台様の侍女を選んだ男……許嫁なのに振られた女……振った男を介抱する振られた女……。小四郎は答えます。「申すも愚か。女は操を守って両夫にまみえず。忠君は二君につかえず……」。芳野は呆れ顔で「私の申したことがお気にさわりましたか。そのような心で申したのでは御座りませぬ。女は両夫にまみえずと申しますが、殿御は沢山恋人をお持ちなされてもよろしいので御座りますか」。小次郎は答えます。「武士たるものにはあるまじき振る舞いで御座る。女とて忠義は忘れてはならず」。芳野は言います。「あなたは私は左近之助の娘ということを、お忘れあそばしましたのか」。「なにゆえにそのような事を……」「なにゆえとはお情けない!左近之助の娘なら、小さい折から浦松小四郎守真の許嫁の妻では御座りませぬか!あなたは左近之助に芳野という娘があることをお忘れあそばしたので御座りましょう!あまりといえばお情けない!」。しおらしくと心を配れど、顔を見ると恋はいやましに募り、恨みはひとしお深くなります。「お主様[シュウサマ]の命だとて、お主様も人では御座りませぬか。なぜ、左近之助の娘芳野という歴とした妻があると、おっしゃってはくださりませぬ!あなたの口から、わけをお話しあそばして、ご辞退くだすったら、それを無理にとはおっしゃりなさるまい。私のような不束者はイヤにおなりあそばしたゆえ、言い訳もおっしゃらず、ご祝言なされたので御座りましょう!」。八歳にして孤児となった小四郎を育ててくれたのは伯父上の左近之助……しかし、両国の合戦では、敵と味方に立ち別れてしまった……そこに降りかかる縁談……二世の契りか、君臣の縁か……小四郎が戦場に向かう目的はふたつ。お主様と伯父上へのふたつの恩を報じ、芳野と若葉のふたりの女の心を無にしないため一命を捨てること……芳野は恨めしく、なお小四郎を責め、ついには「いっそ死にとうござります。楽しみない命を長らえて、こんな苦労を致すより…」と言います。

「はァつ」と守真の太き溜息に驚かされて。芳野の眼はかれに向く。其[ソノ]顔色は光沢[ツヤ]なく青ざめ。頬骨の露[アラ]はなる。二ヶ所の疵[キズ]の赤黒き。面影かはりて其人[ソノヒト]とも思はれず。此前[コノマエ]逢[アイ]し時は。今凄味[スゴミ]を添ふる乱髪[ランパツ]。其[ソレ]を油艶[ツヤ]やかに取上げ。今愁[ウレイ]に濁[ニゴ]る眼。其[ソレ]も冴々[サエザエ]しく愛嬌を含み。今苦痛に慄[オノノ]く紫の唇。其[ソレ]も丹[アカ]く潤ひ。何一つ恋を媒[ナカダ]たぬはなかりしに。哀れ何一つ愁[ウレイ]を語らぬはなき今。
見るにつけ其人[ソノヒト]の盛[サカン]なりし越方[コシカタ]を思出[オモイダ]し。行末[ユクスエ]いかにかなるらんなど心細く推計[オシハカ]り。目[マ]ばたきもせず守真の顔を目護[ミマモ]る内。芳野の心には「憐[アワレミ]」の情「懐旧[カイキュウ]」を呼出[ヨビイダ]し。「懐旧」「恋」を催し。無情[ツレナク]されても其人[ソノヒト]の傍[ソバ]-瘠衰[ヤセオトロ]へても其人[ソノヒト]の顔。ならぬ恋かと思乱[オモイミダ]れて。重き枕に喞[カコチ]たる時を思へば。薄々[ハクハク]の酒も茶よりはまし。夢になりと面影の通へと。願ひし事さへありしを。嬉しや楽しや今の我。芳野は愁[ウレイ]の中[ウチ]の我を忘れて。淋しさうに笑[エミ]を含む-思慮[シリョ]定まらぬ処女気[オトメギ]。「悲[カナシミ]」も手のうら返して「喜[ヨロコビ]」。蝶[チョウ]は紅[クレナイ]に遊ぶ間[マ]に。風に吹かれて紫に眠る。
芳野の初々しき笑顔に。守真も思はず笑み返す。今となツて何を羞[ハ]づるか。芳野自[ミズカラ]も知らで。顔少し背けて振袖の袂[タモト]を拈[ヒネ]り⦅どうしてあの様にはしたなく言過[イイスゴ]したか⦆ 思へば一倍[イチバイ]の嬌羞[ハズカシ]さ。
⦅芳野殿……芳野殿⦆
和[ヤワ]らかに守真が呼声[ヨビゴエ]。拈[ヒネ]る振袖を横顔に翳[カザ]し。其隙[スキ]から男の顔を詠[ナガ]めて。
⦅はイ⦆
⦅芳野殿。改[アラタメ]てお願[ネガイ]が御座りますが聞て下さるか⦆

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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