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#1037 女ながらも一生懸命、男なれども病苦のやせ腕

それでは今日も尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔』を読んでいきたいと思います。

第三章は、小四郎が、館の別室で、先の合戦の傷を癒しているところから始まります。「御気分はいかがでござります」と芳野が介抱にやってきます。すると、芳野は「おめでとうございました。御祝言あそばしましたとやら……小四郎様……女と申す者は操が大事と申しますが、その様なものでござりますか。」……御台様の侍女を選んだ男……許嫁なのに振られた女……振った男を介抱する振られた女……。小四郎は答えます。「申すも愚か。女は操を守って両夫にまみえず。忠君は二君につかえず……」。芳野は呆れ顔で「私の申したことがお気にさわりましたか。そのような心で申したのでは御座りませぬ。女は両夫にまみえずと申しますが、殿御は沢山恋人をお持ちなされてもよろしいので御座りますか」。小次郎は答えます。「武士たるものにはあるまじき振る舞いで御座る。女とて忠義は忘れてはならず」。芳野は言います。「あなたは私は左近之助の娘ということを、お忘れあそばしましたのか」。「なにゆえにそのような事を……」「なにゆえとはお情けない!左近之助の娘なら、小さい折から浦松小四郎守真の許嫁の妻では御座りませぬか!あなたは左近之助に芳野という娘があることをお忘れあそばしたので御座りましょう!あまりといえばお情けない!」。しおらしくと心を配れど、顔を見ると恋はいやましに募り、恨みはひとしお深くなります。「お主様[シュウサマ]の命だとて、お主様も人では御座りませぬか。なぜ、左近之助の娘芳野という歴とした妻があると、おっしゃってはくださりませぬ!あなたの口から、わけをお話しあそばして、ご辞退くだすったら、それを無理にとはおっしゃりなさるまい。私のような不束者はイヤにおなりあそばしたゆえ、言い訳もおっしゃらず、ご祝言なされたので御座りましょう!」。八歳にして孤児となった小四郎を育ててくれたのは伯父上の左近之助……しかし、両国の合戦では、敵と味方に立ち別れてしまった……そこに降りかかる縁談……二世の契りか、君臣の縁か……小四郎が戦場に向かう目的はふたつ。お主様と伯父上へのふたつの恩を報じ、芳野と若葉のふたりの女の心を無にしないため一命を捨てること……芳野は恨めしく、なお小四郎を責め、ついには「いっそ死にとうござります。楽しみない命を長らえて、こんな苦労を致すより…」と言います。そんな芳野に小四郎は「あらためてお願いござりますが聞いて下さるか」と言います。「私を夫と思う心に偽りはござらぬか」「偽りはござりませぬ」「それほど思うて下さるのに、なぜ隠し立てをなさる」「あなたは根もないことをこしらえて、私の願いを叶えぬようにあそばす心でござりますな」「左様な卑怯者ではござらぬ。一昨日、伯父上から便りがござりましたろう」「えぇっ」「その便りを聞かして下され」。その便りとは、伯父上の陣中からの吉報で、敵はさんざんにやられて大将まで討ち死にしたというもの……。小四郎にとっては涙の顔、遺憾の情、悲報の便り……。「た、大将まで討ち死に……」

苦痛を忘れて跳起[ハネオキ]。五体を震[フル]はし歯を喰〆[クイシ]め。
⦅む……無念口惜[クチオ]しい⦆
逆立[サカタ]ツ眉。血走る眼[マナコ]-駭[オドロ]く芳野は守真に取附[トリツ]き。
⦅小四郎様……もシ小四郎様⦆
縋[スガ]るを突除[ツキノ]け。枕元の鞘巻[サヤマキ]に手を掛[カケ]れば。突除[ツキノケ]られし芳野。また其手[ソノテ]にしがみつき。
⦅何事を……御生害[ショウガイ]か⦆
⦅しィつ⦆
芳野は忍ばす声に力を籠め。
⦅逸[ハヤ]まツた事をして下さりますな⦆
女ながらも一生懸命。男なれども病苦の痩腕[ヤセウデ]。白き手と。青き拳[コブシ]の間に。二寸輝く刃[ヤイバ]の光。振解[フリホド]き-抜放[ヌキハナ]す力はなく。無念と苦痛をまぜし守真の呼吸-驚駭[オドロキ]と恐怖[オソレ]にせはしき芳野の動気[ドウキ]。それの漸[ヨウヤ]く静まる時。
⦅父上も明日は帰りますゆへ。御相談遊ばしましたら。よい御分別も御座りませう。御短気はどうぞ……小四郎様⦆
痺[シビ]るゝ手から鞘巻[サヤマキ]をもぎ放[ハナ]され。守真は無言-投首[ナゲクビ]。

「投げ首」とは、思案に暮れるさま、しょんぼりするさま、という意味です。

今此処[ココ]で。自害[ジガイ]覚束なしと思へば。
⦅いかにも……伯父上に御目に掛[カカッ]て……⦆
詐偽[タバカリ]と知らねば
⦅はイ。どうぞさう遊ばして……⦆
⦅芳野様……芳野様⦆ 書院の方[カタ]に侍女[コシモト]の声。
⦅どうぞ御短気を遊ばしますな。此[コノ]馬手指[メテザシ]はお預り申して参ります⦆
芳野は鞘巻を懐[フトコロ]に押入[オシイ]れ。乱鬢[ランビン]を掻き-眼[メ]を拭ひ。
⦅お風[カゼ]を召[メシ]ます……御寐[ギョシ]なりまし⦆
⦅此儘[コノママ]でよろしう御座る⦆
⦅左様ならば後ほどまた……⦆
力なく立上[タチアガ]り。しほ/\と襖を開く。
⦅芳野殿⦆
ふり向く顔をつく/\見て
⦅伯母上に……よろしく……⦆
⦅はイ……必ず御短気を……⦆
首肯[ウナズ]く守真。出行[イデユ]く芳野。知るや其[ソノ]鞘巻は遺物[カタミ]-黒髪を切れとて。

というところで、「怨言[ウラミ]の巻」が終了します!

さっそく次章の「自害の巻」へと移りたいのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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