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#652 學海は、規律の正しさと読書を喜びます

それでは今日も山田美妙の『明治文壇叢話』を読んでいきたいと思います。

美妙は、徳富蘇峰・森田思軒・朝比奈知泉の三氏から、「文学会を組織しよう」という手紙をもらい、1888年9月8日、芝公園の三緑亭へと赴きます。午後五時半、出席の第一番は依田學海、依田は時間を間違えない性格のようで、会の集まりには誰よりも早く来るみたいで…。その後、続々と、坪内逍遥や森田思軒など、総勢11人が集まります。依田氏は、こういう集まりの時には、誰よりも早く来る性格のようで、依田氏が会合にいれば、場が賑やかになるそうで…。しかも禁酒禁煙で、芸妓に冗談すら言わない性格のようです。そんな依田氏と美妙には、些細な噴き出す話があるようで…。浅草での日本演芸協会の演習での帰り道、美妙は依田氏とバッタリ会います。演劇論から小説論へと話が及び、やがて年齢の話がはじまります。自分はすでに老年であることをまわりの若い文学仲間に伝えると、坪内逍遥が「先輩には後進の先導を…」と答えます。すると、笑いながら「漢文で先導でもしましょうか」と言って、美妙の『いちご姫』の「小君」の読み方について、「しょうくん」ではなく「こきみ」と読ませた方がいいのではないかと指摘します。美妙は、「しょうくん」と読ませた根拠を學海に説明します。その後、多くの文学仲間と海を見晴らせる離宮の築山へのぼり、旧幕時代との景色の変化の様子を語ったあと、話がさらに変わったようで…

「修史局[シュウシキョク]に集まッてる材料の中には余程[ヨホド]奇異なのが有ッて私は是[コレ]からあれらからの記臆[キオク]を種[タネ]にして懐良[カネナガ]親王や夏井[ナツイ]の事を書くつもりです」。

修史局とは、1869(明治2)年創設の史料編集国史校正局を1875(明治8)年に改名したもので、現在の東京大学史料編纂所のことです。

懐良親王(1329-1383)は後醍醐天皇(1288-1339)の皇子です。夏井は紀夏井[キノナツイ](生没不明)のことで平安時代前期の貴族のことです。

あゝ思へばことしやがて出版になる依田氏の『応天門』といふ草稿も既[スデ]に此頃[コノコロ]から孕[ハラ]んで居たのでした。
かれ是[コレ]海のながめも飽きてやがて館[ヤカタ]へ立帰[タチカエ]ると、既に堀越秀[ホリコシシュウ](市川団洲[イチカワダンシュウ])氏も来て居て呼びかけたため依田氏とのみ会話は了[オワ]りました。

山田美妙は1888(明治21)年に短編集『夏木立』の初編を金港堂から刊行しますが、『夏木立』第二編は依田學海の『応天門』、春亭花友という作家の『あやしき赤蠅』、櫻という作家の『哀々』という短編で成り立っています。

市川団洲とは、九代目市川団十郎(1838-1903)のことです。#600でも少しだけ紹介しましたが、「演劇改良会」が創立されたのは1886(明治19)年ですが、改良運動自体は1877(明治10)年前後から起こっており、演劇界からは、12代目守田勘彌[カンヤ](1846-1897)と9代目市川団十郎が協力しました。

依田氏の性質は、清潔を好み、規律の正しいのを愛しまた読書を喜びます。書斎などの取片付[トリカタヅ]いて居るのは実に心持ちいゝ程で、書架には書物が如何にも整然として而[シカ]も幾度用ゐられても書物はいづれも新らしく為[ナ]ッて居ます。中根香方氏などは読書するに寝ながらの方を好む性質、依田氏は全く反対でちやんと四方を片づけて、さて静[シズカ]に机に向ッて読む性質です。読書を氏が好むのは其書斎に夜も洋燈[ランプ]が赫[カガヤ]いて居ぬ事が少[スクナ]いので知れます。

中根香方は、おそらく、金港堂の総支配人兼編集長を務めていた漢学者の中根香亭(1839-1913)のことかと思われます。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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