見出し画像

#646 新たな文学会発足のため三緑亭に集まったのは…

それでは今日も山田美妙の『明治文壇叢話』を読んでいきたいと思います。

美妙は、徳富蘇峰・森田思軒・朝比奈知泉の三氏から、「文学会を組織しよう」という手紙をもらい、1888年9月8日、芝公園の三緑亭へと赴きます。

で、出席した会の定刻は午後五時半、私につゞいて直[ス]ぐに跡から入ッて来られたのは高橋五郎氏で、われ/\より早く依田氏は出て居ました。依田氏の前にはまだ誰一人とて居ぬところ即ち依田氏が出席の第一番でした。

高橋五郎(1856-1935)は聖書の翻訳を手掛けた翻訳家です。

実に今日[コンニチ]までも相変らぬのは会期の時間を違[タガ]へぬ依田氏の性質で、それから以来こゝに三年、諸所[ショショ]の会でも出会[シュッカイ]しますが大抵は依田氏が先陣です。
姓名を互[タガイ]に名乗ッて其処で三人同志の物語になりました。依田氏は其[ソノ]時五十五六、腮髯頬髯[アゴヒゲホホヒゲ]とも大方白髪まじりで髪の毛は割合に薄くない方、身長は中長できりゝとした顔付き、色は歳月に染められて白いといふ方でも無いものの年と比較して皺[シワ]は少なく、笑ふ時には一種の愛嬌が目に生じて、まづ親しむべく、又敬すべき態度でした。紋無しの鶯茶[ウグイスチャ]の羽織着ながしでしたが、着物は何か見損[ミソコナ]ひました。依田氏の紋処[モンドコロ]は横向[ヨコムキ]の揚羽蝶[アゲハチョウ]が、氏の好みは無紋[ムモン]に有ると見えて此[コノ]日のみか、他の時でも氏が有紋[ユウモン]を着るのは最も罕[マレ]です。

こういう記録、ありがたいですよねぇ~。前置きにあるように、「風采から態度迄綿密に写すこと」という意識がないと、意外と記録されないものなんですよねぇ~。作家の笑顔の写真とか、ほとんどないですからね!

やがて吉野拾遺名歌誉[ヨシノシュウイメイカノホマレ]の事から芝居の話しが始まりました。

學海は、九代目市川團十郎(1838-1903)の演劇改良運動に賛同したひとりであり、歌舞伎の近代化を目指し、川尻宝岑(1843-1910)との合作で『吉野拾遺名歌誉』(1886)などの脚本を書いています。

彼是[カレコレ]論も湧[ワ]きましたがさしたる事でも有りませんでした。その内に彼是人も集まりました。内田周平[ウチダシュウヘイ]、朝比奈知泉、森田文蔵、徳富猪一郎、竹越与三郎[タケコシヨサブロウ]、坪内雄蔵、久米幹文[クメモトブミ]、矢野文蔵[ヤノフミオ]これらの諸氏で、実に今日[コンニチ]の文学会のはじめは此時[コノトキ]でした。

内田周平(1854-1944)の号は遠湖で儒学者、竹越与三郎(1865-1950)の号は三叉で新聞記者、久米幹文(1828-1894)は国学者、矢野文蔵(1851-1931)の号は龍渓[リュウケイ]で小説家としても活躍した政治家です。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?