#629 だれが永別の涙でないと言いましょう
それでは今日も山田美妙の『胡蝶』を読んでいきたいと思います。
海は軍船を床として、討ち死にした武士の骸が幾百と漂っています。猛将・平教経が源氏の旗下へ飛び込み、敵を蹴散らします。源義経は危ういと思い、旗下へ引き返しましたが、反動の力すさまじく、敵は安徳天皇が乗った御座船に近寄ります。
「能登守だに死にたるよ」。たれ言うとなく伝えるこの声、こゝろ細さは増すばかりです。新中納言(知盛[トモモリ])の顔を見るさえ涙です。
「能登守」は平教経のこと、「新中納言」は平清盛の四男・平知盛(1152-1185)のことです。
泣立[ナキタ]てゝ訳[ワケ]もなく主上[シュジョウ](安徳帝)に取縋[トリスガ]る女房どもの有様には万夫不当[バンプブトウ]、平家の柱石[チュウセキ]と聞えた新中納言の唇もわなゝいて、着馴[キナ]れた鎧の威毛[オドシゲ]にやゝ止[トマ]る露の雫[シズク]、それを飛沫[シブキ]と言うだけ哀れ、だれが永別の涙でないと言いましょう。
「万夫不当」とは、大勢の男たちが立ち向かっても敵わないほど強いことを意味します。
「鎧の威毛」とは、鎧をとじ合わせている糸や革のことです。
知盛の今日のむねぐるしさ、わざと従容[ショウヨウ]として無理に笑顔を売るものゝ、その笑顔は冬野の寒菊、無情の風を待つのみです。主上に対する眼[マナコ]、女房どもに向ける目眦[マナジリ]、いずれ優劣なく無念の露を宿して、否[イナ]帯びて、むしろ色は、今まで蒼[アオ]ざめていたのが次第に紅[アカ]くなって行き、いつの程[ホド]にか髪の毛も針を植えているようです。
かなわぬまでもと思う心は今でも知盛の胸には充ちていますから一寸[チョット]帰って主上に拝謁[ハイエツ]するや否や更にまた引返しては敵に近付いて士卒をはげましています。
敵は次第に御座船に近づく﹆……また矢が雨のようになる﹆……前後には呻[ウナ]り苦しむ声。見るに目も暮れ、心も消えます。はや其処此処[ソコココ]とも乱れ果てました。最前から幾度[イクタビ]も心元なさに舷頭[ゲントウ]へ立出[タチイデ]ては戦争[イクサ]の様子を見ていた二位尼[ニイノアマ]もこゝで心を決したと云う体[テイ]で窃[ヒソカ]に御座船の奥の間へ源典侍[ゲンノナイシノスケ]、侍従経房[ジジュウツネフサ]、原田大輔判官種長[ハラダタイフホウガンタネナガ]、因幡郡司景家[イナバノグンジカゲイエ]、及び右大将基方[ウダイショウモトカタ]、大納言典侍[ダイナゴンノスケ]、勾当内侍[コウトウノナイシ]、阿波内侍[アワノナイシ]の八人を呼びました。
というところで、この続きは…
また明日、近代でお会いしましょう!
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