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#645 今日から『明治文壇叢話』を読み始めます!

それでは今日から山田美妙の『明治文壇叢話』を読んでいきたいと思います。

まずは前書きからです。

例言[レイゲン] 西洋人も中々筆まめで日常見聞の事を日記にしたゝめる中にことに面白いのは、文学者が他の文学者に出逢ッて其の風采[フウサイ]から態度迄[マデ]綿密に写すことで、或[アルイ]はそれらの人々の死後或[アルイ]は生前に世に公[オオヤケ]になります。日本では之[コレ]が有るか、無いか、よし有るにしろまだ秘[カク]れて世に現[アラワ]れず、兎に角これ故隗[カイ]から始めました。充分に直筆[ジキヒツ]したつもり、是[コレ]から次第に掲[カカ]げます。勿論[モチロン]中の記事は一切筆者が一己[イッコ]の考へで或[アルイ]は直接に実見[ジッケン]、或は間接に推測した処も有り、殊[コト]によると天真[テンシン]とあやまッたか知れませんが、それは御本人の御考へにある事で、或は相違の事が有れば御弁明次第取り消します。

「天真」とは、自然のままで飾り気がないこと、という意味です。

まだ/\其[ソノ]人々の生前に出す方が口の無くなッた死後に出すより罪は軽いでしやうか。次第は素[モト]より不同[フドウ]、たゞ思ふまゝに排列[ハイレツ]しました。こゝに是[コレ]から書くのは第一男女の文学者、新聞雑誌記者などです。知人を食物[クイモノ]にした所は海容[カイヨウ]を願ひます。

美妙が最初に紹介するのは、この方です…

第一 依田百川[ヨダヒャクセン]氏

依田學海(1834-1909)の幼名は幸造、信造…通称は七郎、右衛門次郎…諱は朝宗[トモムネ]…學海は雅号で、百川は字[アザナ]でしたがのちにこれを本名としています。あぁ、めんどくさいですね…w

學海は、森鷗外(1862-1922)に漢文を指導し、幸田露伴(1867-1947)を文壇に送り出しています。

それでは早速本文へと入りましょう!

まづ先輩の依田氏から記しませう。私が始めて依田氏に逢ッたのは明治二十一年九月八日(土曜日)で、逢ッた処は芝公園地内の洋食店三緑亭でした。それまで実は私も余り世の大家と交際するのをば好まず、つひ諸方[ショホウ]に面会の折[オリ]は有ッてもいつも逃れて居ました。が、突然、忘れもせぬ右[ミギ]面会の日の三日前即ち九月六日に、徳富猪一郎[イイチロウ]、森田文蔵、朝比奈知泉[チセン]の三氏から手紙が来て「文学篤志[トクシ]のもの相集[アイアツマ]ッて文学会を組織しやうと思ふ故[ユエ]出席を」との文言、どうした張合[ハリアイ]かむらむらと其処[ソコ]へ出席する気にも為[ナ]りました。

徳富猪一郎は徳富蘇峰(1863-1957)、森田文蔵は森田思軒(1861-1897)のことで、朝比奈知泉(1862-1939)は新聞記者で1888(明治21)年当時は創刊されたばかりの新聞「東京新報」の初代主筆を務めていました。この三人が、1888(明治21)年9月8日、明治文壇に最初の「文学会」を開きます。三緑亭は今の東京タワーの真下にあった洋食専門の料亭でした。文学会の会費は五十銭、夕方5時30分から酒なしで会食し、食後に参会者の一人か二人が、一番得意とするテーマで口演し、その後自由に話し合う会でした。第一回の出席者は、上の三人と、矢野文雄(1851-1931)、依田學海(1834-1909)、竹越与三郎(1865-1950)、山田美妙(1868-1910)、坪内逍遥(1859-1935)、内田周平(1857-1944)、高橋五郎(1856-1935)、久米幹文(1828-1894)、欠席したのは菅了法(1857-1936)、中江兆民(1847-1901)、志賀重昂(1863-1927)、二葉亭四迷(1864-1909)でした。第二回は玉川座、第三回以降は万代軒で開かれますが、1891(明治24)年夏頃には、蘇峰が政治的活動のほうに注力するようになったことや、参会者が多くなり過ぎたことや、酒を飲んでくる者などが現れてだんだんと締まりのない会になった等の理由で、約二年半で自然と解消してしまいます。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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