#645 今日から『明治文壇叢話』を読み始めます!
それでは今日から山田美妙の『明治文壇叢話』を読んでいきたいと思います。
まずは前書きからです。
「天真」とは、自然のままで飾り気がないこと、という意味です。
美妙が最初に紹介するのは、この方です…
依田學海(1834-1909)の幼名は幸造、信造…通称は七郎、右衛門次郎…諱は朝宗[トモムネ]…學海は雅号で、百川は字[アザナ]でしたがのちにこれを本名としています。あぁ、めんどくさいですね…w
學海は、森鷗外(1862-1922)に漢文を指導し、幸田露伴(1867-1947)を文壇に送り出しています。
それでは早速本文へと入りましょう!
徳富猪一郎は徳富蘇峰(1863-1957)、森田文蔵は森田思軒(1861-1897)のことで、朝比奈知泉(1862-1939)は新聞記者で1888(明治21)年当時は創刊されたばかりの新聞「東京新報」の初代主筆を務めていました。この三人が、1888(明治21)年9月8日、明治文壇に最初の「文学会」を開きます。三緑亭は今の東京タワーの真下にあった洋食専門の料亭でした。文学会の会費は五十銭、夕方5時30分から酒なしで会食し、食後に参会者の一人か二人が、一番得意とするテーマで口演し、その後自由に話し合う会でした。第一回の出席者は、上の三人と、矢野文雄(1851-1931)、依田學海(1834-1909)、竹越与三郎(1865-1950)、山田美妙(1868-1910)、坪内逍遥(1859-1935)、内田周平(1857-1944)、高橋五郎(1856-1935)、久米幹文(1828-1894)、欠席したのは菅了法(1857-1936)、中江兆民(1847-1901)、志賀重昂(1863-1927)、二葉亭四迷(1864-1909)でした。第二回は玉川座、第三回以降は万代軒で開かれますが、1891(明治24)年夏頃には、蘇峰が政治的活動のほうに注力するようになったことや、参会者が多くなり過ぎたことや、酒を飲んでくる者などが現れてだんだんと締まりのない会になった等の理由で、約二年半で自然と解消してしまいます。
ということで、この続きは…
また明日、近代でお会いしましょう!
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