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#1031 それしきをさとらぬ小四郎か、それしきをえせぬ守真か

それでは今日も尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔』を読んでいきたいと思います。

第三章は、小四郎が、館の別室で、先の合戦の傷を癒しているところから始まります。「御気分はいかがでござります」と芳野が介抱にやってきます。すると、芳野は「おめでとうございました。御祝言あそばしましたとやら……小四郎様……女と申す者は操が大事と申しますが、その様なものでござりますか。」……御台様の侍女を選んだ男……許嫁なのに振られた女……振った男を介抱する振られた女……。小四郎は答えます。「申すも愚か。女は操を守って両夫にまみえず。忠君は二君につかえず……」。芳野は呆れ顔で「私の申したことがお気にさわりましたか。そのような心で申したのでは御座りませぬ。女は両夫にまみえずと申しますが、殿御は沢山恋人をお持ちなされてもよろしいので御座りますか」。小次郎は答えます。「武士たるものにはあるまじき振る舞いで御座る。女とて忠義は忘れてはならず」。芳野は言います。「あなたは私は左近之助の娘ということを、お忘れあそばしましたのか」。「なにゆえにそのような事を……」「なにゆえとはお情けない!左近之助の娘なら、小さい折から浦松小四郎守真の許嫁の妻では御座りませぬか!あなたは左近之助に芳野という娘があることをお忘れあそばしたので御座りましょう!あまりといえばお情けない!」。しおらしくと心を配れど、顔を見ると恋はいやましに募り、恨みはひとしお深くなります。「お主様[シュウサマ]の命だとて、お主様も人では御座りませぬか。なぜ、左近之助の娘芳野という歴とした妻があると、おっしゃってはくださりませぬ!あなたの口から、わけをお話しあそばして、ご辞退くだすったら、それを無理にとはおっしゃりなさるまい。私のような不束者はイヤにおなりあそばしたゆえ、言い訳もおっしゃらず、ご祝言なされたので御座りましょう!」

守真が手を握詰[ニギリツ]め-抱〆[イダキシ]め。恋の一念がいはせる恨[ウラミ]。日頃に応ぜぬ舌の働き。なよやかに見ゆる庭の若竹[ワカタケ]も。恐ろしや雪を刎返[ハネカエ]す力はあるもの。
いかに芳野。知らずや戦国の常として。味方同士に孤疑[コギ]を抱き。一言[イチゴン]の讒[ザン]に千人の命を失ふ。某[ナニガシ]の城某[ナニガシ]の陣。妻を遺し子を送り。人質に誠[マコト]を明かす頼みなき世の習[ナライ]。春秋戦国の時魯[ロ]の兵術者[ヘイジュツシャ]呉起[ゴキ]といふは。斉[セイ]との合戦に大将としてさしむけられたき望[ノゾミ]あれど。その妻[ツマ]斉の産[ウマレ]なれば。魯人[ロジン]の思はくをかね。神[シン]ぞ二心[ニシン]なき真心[マゴコロ]を明[アカ]さんがため。露咎[ツユトガ]なき最愛の妻をわが手にかけ。功名首尾[コウミョウシュビ]よかりしが。残忍薄行[ザンニンハッコウ]の男よと名立[ナタテ]られ。遂には身にふりかゝる禍[ワザワイ]のあらんかと恐ろしく。魏国[ギコク]へ走りし例[タメシ]もあり。

『史記』に記された、呉起の、魯への忠誠を示すための妻殺しは、「損人利己」という故事成語にもなっています。

無情なる呉起の振舞[フルマイ]。人の人たるものゝ学ぶべきにあらざれど。時にとりては此[コレ]に似たる心掛[ココロガケ]なくては叶はじ。小四郎守真八歳にして孤[ミナシゴ]となりしを。父が義兄遠山左近之助陰[カゲ]ながら守[モ]り育て。弓引[ユミヒ]き太刀打業[タチウツワザ]をも伝へ。此[コレ]までに……。瑣少[サショウ]の事より両国の合戦さし起り。伯父[オジ]甥[オイ]其君[ソノキミ]を異にすとて。敵味方に立別[タチワカ]れたれば。守真は敵の内に伯父と頼む人あり。二心[ニシン]はなきか。油断なく振舞[フルマイ]に心附[ココロヅ]けよなど。あらぬ陰言[カゲゴト]も耳にいる其矢先[ヤサキ]若葉が恋慕-もだしがたき主命[シュメイ]。敵の内に伯父を持つさへ。讒口[ザンコウ]の種となるを。其娘-敵の片われと二世の契[チギリ]……此[コレ]を大胆にも主[シュ]の前にて言放[イイハナ]つべきか。祝言は否[イナ]むべし……我身[ワガミ]の浮沈[フチン]。主[シュ]の心を損じて君臣の縁を絶[タタ]れ。編笠[アミガサ]やれ鼓[ツヅミ]-轍[ワダチ]の魚[ウオ]と落ぶれても。むかしの一諾[イチダク]を重[オモン]ずるがために。不道[フドウ]の君に見放[ミハナ]されしと名を立[タテ]らるゝならば。知行[チギョウ]や扶持[フチ]に心を煩[ワズラ]はす守真ならず。義ゆへの浪人ならば犬となツて。肩衣[カタギヌ]に臂[ヒジ]張るよりは心易[ココロヤス]し。それしきを暁[サト]らぬ小四郎か。それしきを得為[エセ]ぬ守真か。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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