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#488 ちょっとだけ洋裁の話

二葉亭四迷の『浮雲』の第十八回には、お勢さんが洋裁の夜稽古に通い出す場面があります。

1859(安政6)年、5ヵ国通商条約がむすばれて、横浜・長崎・函館の3港が開かれると、多くの外国人が横浜へ移住してきました。同年10月、アメリカの宣教師サミュエル・R・ブラウン(1810-1880)が妻を伴って布教のため来日します。一足先に来日していた、ヘボン式ローマ字を広めたアメリカの宣教師ジェームス・カーティス・ヘボン(1815-1911)が住んでいた神奈川の横浜村の成仏寺に一緒に住むことになりました。このサミュエル・ブラウンの妻エリザベス・ゴッドウィン・ブラウンが最新型のミシンを持参していたため、在留外国人から手に負えないほどの注文が入り、これが機会となって、日本人へ洋裁を伝えることになります。

1860(万延元)年、ブラウン夫人の助手となって洋裁を学んだ沢野辰五郎(1849-不詳)が、1868 (明治元)年頃、独立して横浜本町通りに開業し、日本で最初の洋服裁縫師となります。ブラウン夫妻は、1864(元治元)年6月に横浜山手に新居を構えますが、火事で全焼したため、一時アメリカへ帰国します。1869(明治2)年に再び来日しますが、この時、ブラウンの推薦により日本の宣教師に任命され、赤の他人であるのに娘として来日したのが、メアリー・エディー・キダー(1834-1910)です。

キダーは、1870(明治3)年、横浜近代医学の始まりとされる、ヘボンが宗興寺(現・横浜市神奈川区)に開いた診療所で、女子を対象に英語の授業を始めます。1872(明治5)年あたりには、編物も教えたとされています。1875年(明治8)年、アメリカ改革派教会外国伝道局総主事であったフェリス父子の支援によって、横浜山手178番に校舎・寄宿舎を建てます。「フェリス・セミナリー」と名づけられました。これがのちの、フェリス女学院です。英学とセットで編物も教授され、宣教師達は英米の女学校に倣って「王女会」と呼ばれる学年縦割りの10人グループによる自治会を設置し、金曜日の夜に教師や女学生達が集まって、慈善事業の資金を得るための洋裁や編み物などの手仕事を行ないました。

一方、その頃、東京では、1868(明治元)年、仕立て屋での9年間の年季奉公を終えて郷里の千葉に帰り、地域の子女に裁縫を教える男がいました。渡辺辰五郎(1844-1907)です。渡辺は、故郷の長南小学校で裁縫の授業を担当し、その後、千葉女子師範学校(現・千葉大学)、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)などでも裁縫を教授し、文部省御用掛を拝命されます。1881(明治14)年、本郷湯島に裁縫の私塾、和洋裁縫伝習所を開設し、1892(明治25)年、東京府の認可を得て、東京裁縫女学校と改称します。これがのちの、東京家政大学です。また1886(明治19)年には、渡辺をはじめとした34名の先覚者を発起人として「共立女子職業学校」を設立します。これがのちの共立女子大学です。

西南戦争勃発に伴う軍服の需要から、ミシンによる大量生産が開始されたのは、1877(明治10)年の頃です。その後、アメリカのアイザック・メリット・シンガー(1811-1875)が創業したシンガー社のミシンが、1900(明治33)年、日本国内での販売を開始し、1906(明治39)年には、東京市麹町区有楽町に女子を対象にミシン裁縫の指導を行う学校としてシンガーミシン裁縫女学院が設立されます。日本でのミシン量産が始まったのは、1921(大正10)年にパイン裁縫機械製作所が創業された頃からで、このパイン裁縫機械製作所が、のちのジャノメミシンです。

ということで、再び、『浮雲』に戻りたいのですが…

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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