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#1241 酒も旨く、月も良く、風も涼しく、お才も美しい

それでは今日も尾崎紅葉の『三人妻』を読んでいきたいと思います。

新聞社に探りをいれた事実を、あからさまに余五郎の耳に入れれば、いかなる椿事を仕出すか……。あの記事は、お才に棄てられた菊住の虚説とし、今後身を慎めば、世間のうわさも七十五日とお才に意見を加えるが、ひとつマズイのはお才のもとを訪れたこと。伝内から伝わってしまえば、お才への忠告も心苦しいものとなる。そこでウソは言わないが、事実を半分隠して、このたびは不埒な自分に免じて許してほしい事、お才の浮気のもとは、余五郎がお才を疎遠にした事、今後は満遍なく来てほしい事を伝えると、余五郎は笑い、山瀬の頼みなら知らぬ顔して何も言わないと言います。余五郎が菊住はどうしていると問うと、某省の雇いとなって、ある若後家の男妾を稼ぎおると答えると、あのような意気地なしの男を忘れられぬとは、お才の気性にも似合わないことだが、この道の格別というはそこであると言います。

お才の事の露[アラ]はれたるより、有繫[サスガ]に心楽[タノシ]まず。浅ましき夢など見るにつけて、いとヾ結[ムス]ぼる〻気を紛らさむと、一銚子[ヒトチョウシ]つけて見れば、手酌[テジャク]の酒はぐい飲[ノミ]になりて、大分過[スゴ]して微[ワズカ]に酔ひ、これから午睡[ヒルネ]して暑熱[アツサ]を忘ればやと、独り二階の風に寝転びて、うと/\となりける耳元に、お仲が慌たヾしく、御前様[ゴゼンサマ]の御入来[オイデ]といふに驚き、しやら解[ドケ]の帯引緊[ヒキシ]め、寝乱[ネミダ]れの裙[スソ]婆娑々々[バサバサ]と、二三段階子[ハシゴ]を降行[オリユ]く下より、余五郎お才を仰ぎて、無事かと機嫌好[ヨ]き言葉を懸けぬ。
お才は嬉しげに笑ひかけて、何方様[ドナタサマ]か、失礼ながらお見それ申しました。主人[アルジ]へ御用ならば深川の別荘へ御訪ね下されまし。此家[コチラ]へは足懸け十年も見えませぬ、と憎いほど可愛[カワユ]き余所々々[ヨソヨソ]しさ。否[イヤ]主人[アルジ]には用無し。御内儀[オナイギ]にちと逢ひたさに。これは/\桜色の御機嫌。どなた様のお合[アイ]をなされたことか。此方[コノホウ]も早速似[アヤカ]りたいと、劈頭[ノッケ]から和[ヤワラ]かに出懸けて、何事も知れる気色[ケシキ]を見せず。急に逢ひたくなりて、出て来たやうな顔でゐれば、お才は一昨日[オトトイ]の山瀬の忠告は、御前[ゴゼン]へ内々と口には言へど、確[タシカ]に諜合[シメシア]はせしこと〻想はる〻に、遠き親類ほど音信[オトズレ]なかりし余五郎の、珍らしくも今日見えたるは弥[イヨイ]よ怪しく、様子見[ヨウスミ]に来られて様子見らる〻お才にはあらず。先方[サキ]がその気ならば此方[コチラ]も負けず、御前[ゴゼン]一人が真箇[ホン]にいとしい顔。
下には伝内が、隙もあらば御前[ゴゼン]に近づき、先達[サキダッ]て袖岡の塀の外に千辛万苦[センシンバンク]して、探得[サグリエ]たる仔細を申上[モウシア]げむものをと、部屋の口に面[ツラ]さし出して、階子[ハシゴ]の足音を気にしてぞゐたりける。
此夜[コノヨ]余五郎は一泊して、酒も旨く、お才も美しく、月も良く、風も涼しく、何事も御意[ギョイ]に称[カナ]ひて、此[コノ]家の座敷開きせし爾日[ソノヒ]のやうなる機嫌にて帰りけり。

というところで、「後編その十五」が終了します!

さっそく「後編その十六」へと移りたいのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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