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#659 「二葉亭四迷」が「長谷川辰之助」であることを知らなかった美妙

それでは今日も山田美妙の『明治文壇叢話』を読んでいきたいと思います。

交友録の三人目は二葉亭四迷…。美妙と四迷の父親どうしが馴染みであったようで、彼らがはじめて出会ったのは、1883(明治16)年、美妙が15歳、四迷が19歳、まだふたりが学生の時でした。ふたりは、文法・文脈に関する話をしましたが、そのとき四迷は「私の教科書は小説が主です」と発言したようです!話題が軍事へと移った時の、四迷の「軍人は面白うございましょうなぁ」という言葉を美妙ははっきりと覚えています。その後、ふたりが再会したのは2年後の秋、父親と一緒に尋ねてきて、そのときは挨拶だけで帰りましたが、2年前より身長が非常に高くなったようです。

終[オワリ]に長谷川氏は辰之助氏の事を色々はなして、
「あれも今遊んで居[オ]りますが、どうも困るのは小説が好[スキ]で随分凝りかたまッて居るやうで ー 私もつまらぬ物を、御前[オマエ]なんぞにそんな気の利いた事が出来るものかと言ッて差しとめるやうにして居ますのです。がどうも聞きませんで困ります。あの春のや、あの先生とは同国の処から懇意で今往復して居ますが……」。

1885(明治18)年12月、専修学校(現在の専修大学)を卒業後、四迷は逍遥のところに通うようになります。初めて訪問したのは、1886(明治19)年1月24日のことです。

どきりと私も胸に来ました。長谷川氏は語[コトバ]をつゞけました。
「あの先生は学問もあッてあゝ売り出したンですから宜[ヨロ]しいですが、辰なんぞが何のどうして。全体その魯西亜[ロシア]語を、御承知のとほり、学校でやりましたがその教科書が大抵小説であるとかでそれから兎角[トカク]……はゝゝゝ」。
ほとんど小説のやうな事実、まことに此時[コノトキ]の私の驚きは非常でした。前に川上氏から彼是[カレコレ]辰之助氏の浮評[フヒョウ]を聞いたそれながら猶果[ハタ]して浮雲の著者其人[ソノヒト]が実際わたしの幼友だちであッたとは思ひませんでした。

そっか…美妙は「二葉亭四迷」が「長谷川辰之助」であることを、この時まで知らなかったんですね…。

何が無し、言句[ゲンク]は出ません。しばらくは。ところを、あゝ錆刀[サビガタナ]の一[ヒト]ゑぐり、またも長谷川氏が言ひました。
「時にと、今日の読[ヨミ]うりに武蔵野とかいふのを出した美妙斎といふ人は誰でせうか?辰が一読して恐ろしく珍らしがつて居ました」。
まことに長谷川氏は私が其[ソノ]著者であるといふのを知らなかッたんです。が、このやうな、意外をかさねる場合は又と有りますまい。
「さうですかな?」実に嘘も何も無く、をかしさもをかしさ、私が言ひ得たのは是だけでした。はづんで掛[カカ]ッた長谷川氏の語気、はづまぬ返答に力抜けがしたと見えて更に話しは又旧[マタモト]に戻りました。有体[アリテイ]に言へばその話柄[ワヘイ]が武蔵野を去るのをば ー 自惚[ウヌボレ]! ー 残りをしく思はれました。それからと言ふものは彼是[カレコレ]その浮雲の評論になりました。今まで放仮[ホウカ]して著者は誰かとのみ思つて居たがさうとは更に気が注かなかつたぐらゐを明らかに私は言ひ得たのみでした。口がむづ/\しました、その武蔵野の著者は私だと明[アカ]さうかと思つて、幾度も言葉が舌をつきました。が、兎角また敢[アエ]て打ち出し得[エ]もしませんでした。みづから名唱[ナノ]る大人気[オトナゲ]なさを流石[サスガ]に知つても居ました。それのみか。猶その打明[ウチアケ]を禁ずる原因が外[ホカ]にもありました。

四迷も同様、「山田美妙」が「山田武太郎」であることを知らなかったわけですね…

なんともドラマチックな話ですね!

というところで、『明治文壇叢話』が終了します!

さて、このあとに関しては…

また明日、近代でお会いしましょう!

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