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料理が苦手だと主張する人は、なぜに料理が苦手なのかを深堀りした結果、レシピ解説に潜む落とし穴に気づいた。『デタラメだもの』

今日中に物語の発想を創出せねば締切に間に合わないやん、どうするのん、と思考をグルグルと巡らせていると、「そういえばなぜ、世の中には料理ができないと主張する人がいるのかしらん?」という疑問が芽生えてしまった。疑問が生じたからには、これを考え、煮詰めない手はない。

皆さん、インターネットというものをご存知だろうか。インターネットと呼ばれる世界にはたくさんの情報があるとされているが、言い換えてみればそれは、たくさんの先生が存在することを意味する。

試しに、「かぶと 折り方」と検索してみると、折り紙でかぶとを折る方法がズラズララと表示される。文字や写真による解説はもちろんのこと、丁寧な動画を用いた解説に至るまで。そう。インターネットの世界には、あらゆる分野の先生が存在しているわけだ。

そう考えると今の時代、"できない"というフレーズは禁句になってしまう。なぜなら、その気さえあれば誰だって、基本的には無料で先生に教えを請うことができるんですもの。厳しい世の中よね。「私、できないんです」なんて泣き言を言おうものなら、「この世にできないことなんて、ないのでございますのよ。ほうら、さっさと先生に教えを請うてごらんなさい」と叱責されてしまう。

例にも漏れず、料理だってそのひとつ。前述の状況を鑑みると、料理ができないという主張は、言い換えるなら、料理をする気がない、と置き換えられてしまう。そう。だからこそ、料理ができない人は、料理をする気がない人と、一旦は考えてみたいと思う。

そういった人たちの"料理ができない悩み"というものは、きっとそれほど切実ではないはずだ。だって、端から料理をする気がないんですもの。プラモデル作りに興味がない人が、「わたし、プラモデル作れないんですの」と言ってみたところで、一切の切実さを感じさせないのと同じだ。

熟慮しなければならないのは、料理ができないと主張する人のことではなく、"料理が苦手"と主張する人たちなはず。

繰り返しになるが、インターネットの世界には、実に多くの先生がいる。好みのワードを駆使しながら探せば、たいていの場合、先生は見つかる。ニッチな世界にもなれば、先生が見つからなかったり、先生の解説が不十分な場合もあるが、料理のジャンルともなれば、星の数ほどの先生が存在する。先生の教えが詰まったサイトだってたくさんある。

折り紙の折り方と同様、料理のサイトにも、実に丁寧な解説が添えられている。文字情報を読めば分量は一目瞭然。材料の切り方などは画像を見ればわかる。調理の工程に至っては、動画を見ながら学ぶことも可能。クリエイティビティなど不要。ただただ、解説に従って作業を行うだけでよし。

と、文字面だけを見てみると、この世界から料理が苦手な人は存在しなくなるように思うが、実際のところ、「料理が苦手なのです」と主張する人がいるのは事実。なぜだろうか、と考えてみる。

まずは先生の教え方が不親切なケース。例えば、「簡単に作れるレシピ」と謳われているとする。ここに問題がある。ここで言うところの"簡単"は、誰にとって簡単かということ。プロボウラーにとってストライクを獲ることは簡単なことかもしれないが、ボウリングが苦手な人にとっては至難の技。果たして、苦手な人にとっても"簡単"な塩梅で解説されているかどうかは疑わしいところだ。

「簡単に作れるレシピ」の内容を紐解いてみると、いかにも「簡単」に見せかけるべく、解説が簡素化されているケースが多いことに気づく。つまりは、「ほらっ! 3つのステップで簡単に作れちゃう!」などと安心させてくれるのはありがたいが、解説が簡素化されればされるほど、解説されない工程だったりを、経験や勘やセンスに頼らねばならず、それを持たない人にとっては、とても不親切な解説ということになってしまう。ここが落とし穴なんだな。

では仮に、文字や写真、動画を使って懇切丁寧に解説されているケースを考えてみる。料理ができる人にとっては、「ほうら、見たまんまやっちゃえば、料理なんて簡単だって!」と、相成るはずだ。しかし、各工程の委細は文字で示されているケースが多く、万が一、料理にチャレンジする人が、国語が苦手な人だった場合、解説を読み解けないことも考慮しなければならない。

万が一、国語の部分がボトルネックになり、レシピ解説が読み解けないのであれば、一旦、料理の手は休め、優秀な国語の先生をインターネットで探す旅に出なければならないかもしらん。

その他にも、分量問題がある。レシピの多くには、「2人分」といったように、その料理を召し上がる前提となる人数が記されている。仮に、10人家族の料理の面倒をみる方がそのレシピに挑むとする。すると、使用する調味料や具材などの分量は、レシピに記載されている数値の5倍として計算せねばならない。

5倍の場合はまだ素直だから良しとしよう。9人家族だった場合、何倍にすれば良いのかわからなくなってしまう。もはや、算数ではなく、数学の知識を要するといっても過言ではない。

レシピ通りに作れば誰だって作れるというならば、レシピに記載された分量と、料理を振る舞う人数に要する分量も正確に計算せねばならん。そうなってくると、一旦、料理の手は休め、優秀な算数、もしくは数学の先生をインターネットで探す旅に出なければならない。

そして何より、先生だってそう甘くはない。生徒のことを突き放すこともある。そうじゃなければ、生徒が成長しないからだろうな。厳しい先生はこんなこともおっしゃる。そう。適量問題だ。

「最後に適量の塩・コショウで味を整える」だとか、「最後はお好みでごま油を適量」だとかおっしゃる。冒頭から終盤まで、非常に丁寧にレシピを解説し生徒に寄り添っていた先生が、最後の最後になって、「あとは適量よ。ふふふん。もう、好きにやっちゃいなさい」と生徒任せ。生徒は狼狽するに決まってるじゃないの。

スカイダイビングのインストラクターが、懇切丁寧な指導と補助をやってのけてくれて最後、着地寸前のところで、「あとはお好きに!」なんて言っちゃった日には、ケガ人が続出することは想像に易い。

人による適量の差を見くびっちゃいけない。ラストの工程で、味を激変させる量でさえも適量と捉える人がいてもおかしくない。そこまで丁寧に解説してくれたんだから、「濃い味が好きな人は、塩をひとつまみ」だとか――あかん、あかん、ひとつまみというのも認識に個人差がある。塩ひとつまみは、「親指・人さし指・中指の3本の指先でつまんだ量」らしいが、この概念すらも個人差が生まれるリスクに違いない。

ここまで考えてみて気づく。料理が苦手だと主張する人には、何の罪もない。先生が提供している解説中に、落とし穴が多すぎるという事実。挑むものを挫折に追いやるには充分なほど、危険に満ち満ちている。

そんなことを考えながら、ふふふん、ふふふん、と鼻歌を歌いながら料理に勤しんでいると、すっかり締切のことを失念してしまっている自分に気づく。料理は順調に仕上がっていったが、物語の一切が仕上がっていない。それに気づいた刹那、激しく狼狽してしまい、焦りに焦ってこめかみに汗が適量。無意識のうちに、鍋にごま油を大量、投入してしまっていたことは想像に易い。

デタラメだもの。


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