見出し画像

絵を描くことが一切できない人間には、こんなにも壮絶なエピソードがあったりもする。『デタラメだもの』

それにしても絵の才能がない。才能というとおこがましいな。能力というべきか、絵を描くというプログラムが脳内に実装されていないと言わざるを得ないほどに絵が描けない。

誰もが描けるとされている国民的有名キャラクターの絵なども、まったくもって描けない。似てる似てないの問題どころか、どこかお化け的に仕上がるもんだから、周囲を恐怖のどん底に突き落としてしまう。それを見た者の多くは体調不良を起こし、きっと2~3日はまともな生活を送れない。

なぜ絵が描けないのか。そう、脳内で被写体のイメージが描けぬのだ。例えば犬を描けといわれても、さぁ描いてやろう、と白紙のペーパーを眼前に敷いた刹那、脳内から犬の映像が消え失せてしまう。全体像すら描画できていないもんだから、ディテールなど描けるわけがない。

でもね。文章は書けるんだ。文章で表現しろと言われたら、こんな細かい部分、誰も興味を持たないだろうと指摘されるほど、深部に迫れる。ああだこうだと描写できる。にも関わらず、絵になると、一切描けぬ。何ひとつ描写できぬ。

ところが摩訶不思議なことに、デッサンはできるのです。目の前に被写体が凛と存在してくれていれば、労することなく細部まで再現できる。元来の几帳面な性格が寄与してか、まぁ悪くないデキなんだ、これが。

目の前にあるものは描けるのに、被写体を想像して描くことが一切できない。ただ、文章表現になると脳内に被写体を思い浮かべられる。となるとだ、描画する際においてのみ、脳内に映像を再現できないという欠点を持っていると言わざるを得ない。

そういえば小学校低学年の頃、家の前で友人の声がしたと勘違いし、一緒に遊びたいと渇望した結果、脇目も振らず玄関先に飛び出し、バイクに撥ねられ、前頭部を何針も縫う大怪我を負ったことがある。
バイクに撥ねられた衝撃で身体は宙に浮かび、頭部から地面に激突する。確かあの刹那、描画の際に脳内に映像を再現するための細胞が破損した気がしたんだよ。やっぱりあの時か、あの時だ。合点。合点。

と、今でこそ、絵を描く能力が欠如していることをヘラヘラと語っていられるが、若い頃は、音楽やら文学やらをやっているせいで、「もちろん、絵も描けるんでしょ」というイメージを持たれ、その偶像に悩まされる日々もあった。

なんだろうか、あの、何やら芸術めいたことをやってのけている人は、それと抱き合わせで絵も上手いだろうという捏造されたイメージを持たれる風習は。手先が器用な人は絵が上手いとか、センスがある人は上手に絵が描けるとか。ほんと勘弁して欲しいんだけど、絵を描く能力とその他の能力は、まったく別物なんだよ。天はそんなホイホイと、二物を与えるわけないじゃあないの。

その昔、音楽をやっているつながりで、芸大生と絡むことが多かった。芸大生でもないのに芸大に忍び込んでみたり、下宿に泊めさせてもらったり。お酒を飲み明かし、芸術に関する激論を交わすなど、今思うと貴重な経験をさせてもらった。

いわゆるセンスのかたまりのような連中と絡んでいると、時折、こういうイベントが勃発する。「なあなあ、絵でも描かん?」的な。

いやいや、分かる分かるよ。絵を描くという行為は、なんだかアーティスティック極まりないイメージがあるし、他人と違う描写をカマしたりすることで、他人とは違う感性を持っていることを誇示したり自覚したりできるんでしょ。だからと言ってねぇ――

僕は絵が描けないのです。

とは言えぬまま、流されるようにして絵筆を持たされ、絵の具を絞り出す始末。これはマズいことになるぞ。目も当てられない惨劇が巻き起こるぞ。なんてったってこっちは、描画の際に脳内に映像を再現するための細胞が破損してるんですもの。さぁ、大変だ。

ところがどっこい周囲は、「さぁ、俺たちゃ、お前の才能や感性は認めてる。それを絵で表現するとしたら、どんな世界観を描き出してくれるんだい」と云わんばかりの眼光で迫ってくる。ぬへへ。ぬへへ。僕ちん、絵が描けないのです。なんてお道化てみても許してはもらえぬ状況に相成ってしまっているわけだ。

誰も味わったことのないだろう、アーティスティックな脅迫を受け、汗は滴り落ち、ここで描かねば恥をかいてしまう、人間として、いや、同じく音楽やら文学やらを目指す連中から一斉に見下されてしまう。なぜなら、絵を描けぬヤツは、何ら世界観を持ち合わせていないヤツというレッテルを貼られてしまうからだ。

得たいの知れない重圧に押しつぶされそうになり、激しく苦悶した結果、あり得ない行動に出てしまう。そう。こんなことを宣言してしまったわけだ。

「僕ってヤツはさぁ、絵を描くときは、筆を一切使わぬのだよ」

そう言ってのけ、「じゃあ、何で描くの?」とキョトンとする連中に対し、「もちろん、舌を使って描くのさ」と得意げに言い放つ。そしてその刹那、次から次へと絵の具を口の中に絞り込み、薄汚れちまった舌をスケッチブックに擦りつけ、グラフィティさながらの絵を描いてのけたわけだ。

その姿は狂気に満ちていたに違いない。周囲はとっくに黙り込んでしまっている。もはや目の前の怪物を、同じ人間とすら思っていなかったかもしれない。腹ペコのキッズが、料理を平らげた後の皿に付着したソースまでをも、ご丁寧に舌で舐るようにして、スケッチブックを舐め回してるんだもの。怪奇極まりない。

自分でも何を描いているのか、何が仕上がるのか想像できたもんじゃない。しばらく舌で舐め回した結果、ふとスケッチブックを眺めると、それがある物体に見えてきた。そして、その絵をこう名付けた。「この作品のタイトルはね、"木"だよ」と。

そうさ。これが生きる術なんだよ。上手い下手というルールを課せられた結果、ただじゃ転ばぬ。評価ができぬ、という状況に逃げ込んでやったんだよ。これはアートじゃない。これこそがエンターテイメントだ。一種のパフォーマンスというやつだ。ドヤ?

その後、連中の前で絵を披露する機会は二度と訪れなかった。誰だってあんな怪物を眼前に召喚したくはないだろう。こっちだって二度と、大量の絵の具を飲むような愚行は働きたくない。

と、あの日から絵を描く行為を封印してきたわけだが、先日、ひょんなことから絵を描く機会が訪れた。全く絵が描けぬというエピソードを披露していると、「見せて、見せて」と相成り、目の前のコピー用紙にサササッと描きあげる。もちろん、絵を描くことをオーダーした主はその絵を見て、想像以上に下手くそだったもんだから笑い転げる。もちろん想定の範囲内だ。

しかしここで、事態は想定の範囲外へと。なんと、これほどまでに下手な絵は他にない。インパクトが凄まじすぎる。ぜひ、万人に見てもらうべきだ。と相成り、知人が主催するグループ展に出展してみないか、という流れになったわけだ。

あかん。あかん。また、舌を使わなアカンようになる。それとも、得意のデッサンに逃げるのか? いや、やはり舌だな。舌しかないな。

展示用の絵を提出する締切日が近づき、しかしまだ絵を描けていない。舌を使えていない。どうしよう、どうしようと震えていると、このご時世、催し物は控えるべきだということに落ち着き、開催が中止された。皆様方に助言しておきたい。怪物はこの世に召喚させるべきではないよ、と。

デタラメだもの。


▼ショートショート30作品を収めた電子書籍を出版しました!

▼常盤英孝のプロフィールページはこちら。

▼ショートショート作家のページはこちら。

▼更新情報はfacebookページで。


今後も良記事でご返報いたしますので、もしよろしければ!サポートは、もっと楽しいエンタメへの活動資金にさせていただきます!