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ベーグル指標

今回のテーマ:ベーグル 

by 福島 千里

我が家では決まって毎週土曜日にテニス練習帰りの夫が6個のベーグルを買ってくる。場所は隣町にあるユダヤ人経営の小さな店。そこでプレーン、セサミ、エブリシングの3種類を2個ずつ。

先週の土曜日の朝8時。いつも通り、日課の早朝テニス練習を終えて帰宅した夫が、玄関のドアを開けるなりがっくりと肩を落として嘆いた。

「聞いてよ。ついに値上げした・・・」

差し出された茶色の紙袋を両手で受け取ると、袋越しに中身の熱がじわっと伝わってきた。封の隙間からほのかに立ち登る香りに、つい口元が緩む。しめしめ、今朝は間違いなく窯出し20分以内の上物だ。

「え、値上げしてた? やっぱり?」

焼きたてを早く食べたいという衝動に一瞬我を忘れ、夫への反応が半歩遅れる。

「1個1ドル20セントだってよ。30セントのアップ」
「仕方ないよ。このご時世だし、今までが奇跡的に安かったんだから」
「とりあえず風呂入ってくるわ」

汗だくの夫がため息をつきながらバスルームに直行するのを見送って、私はのろりと朝食の準備に取り掛かった。

ーーーそうか、来るべき日が来たか。

食べて美味しいベーグルは、ニューヨークの食文化を彩るアイコンであると同時に、街の経済指標だとも思っている。景気が悪ければベーグルは値上げし、景気が安定すればそのままを維持し続ける(値下げすることはない)。日常的に口にする食べ物だけに、その小さな変化によって「あぁ、不況きてるな」とか、「もしやこれもインフレの余波」と、間接的に噛み締めることができる(これに同意してくれるニューヨーク在住の方、どれぐらいいるかしら)。

夫の言葉を受け、ふとマンハッタンのお気に入りベーグル専門店のサイトを覗いてみた。ここはパンデミック前からそこそこのお値段で、2019年時点で1個1ドル45セントの比較的高級の部類に入るベーグル専門店。地下の工房でベテラン職人さんが丁寧に1つずつ手捻りしたベーグルで、その素朴な味わいもさることながら、食べ応え満点のボリュームも気に入っている。が、なんてことだ。2021年9月時点の単価は1ドル75セント。30セントの値上がりだ。

ミッドタウンのここはどうだろう。1ドル55セント。やはり値上げしている。では、ロウアーイーストサイドの老舗はどうか。12個(1ダース)でお値打ち価格の$18、ということは安くなっても1個1ドル50セント。2021年9月現在、ニューヨークのベーグル単価1ドル50セントあたりがベンチマークらしい。店舗にもよるが、パンデミック前の相場は1ドル25セント〜1ドル30セントだったから、この1年で確実に20セント+の値上げが生じている。

たかだか数十セントの値上げと思うなかれ。もともと物価上昇が激しいニューヨークだが、コロナ禍の今、物価高騰は以前にも増して加速していると肌で感じている。このところ、マンハッタンを歩き回っているとそれを嫌でも実感する。パンデミック前は事あるごとに立ち寄っていたドーナツ店では、コロナ前の3ドル50セントに対して、単価は4ドル50セントになっていた。ベーグルやドーナツだけじゃない。身の回りのちょっとしたものが、確実にじわじわと値上げしている。パンデミックによる経済打撃から立ち直るべく、景気回復に向けてまっしぐらのアメリカだが、雇用と賃金、原料費などの今後のバランスがインフレにどれだけ影響してくるのか。経済サッパリの私には未知数だが、いずれにせよしばらくは生活のさまざまなところに影響が出てきそうだ。

朝食の準備があらかた整うと、しばらくしてスッキリとしたいでたちの夫がダイニングに戻ってきた。

不穏なことはさておき。

心機一転、紙袋の中からまだ温かいベーグルを取り出し、スライスして各々の皿に並べる。今日のベーグルのお供は燻製した白身魚のスプレッド。熱々の淹れたてコーヒーを啜りながら、焼きたて特有のもっちりとした食感を堪能しつつ、夫のテニス話に耳を傾ける。あぁ、今日もベーグルが美味い。明日も明後日もこれからも、どうか平穏な気持ちでこの味を噛み締めることができますように。


◆◆福島千里(ふくしま・ちさと)◆◆
1998年渡米。ライター&フォトグラファー。ニューヨーク州立大学写真科卒業後、「地球の歩き方ニューヨーク」など、ガイドブック各種で活動中。10年間のニューヨーク生活の後、都市とのほどよい距離感を求め燐州ニュージャージーへ。趣味は旅と料理と食べ歩き。園芸好きの夫と猫2匹暮らし

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