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早春、南伊豆逗留記⑧<最終話>【家族経営の小さい宿】

 <前回はこちら>

 南伊豆での湯治も最終日前夜を迎える。
到着時に3キロ購入した米も一粒残らず炊き上げ、冷蔵庫の中も大方片付いた。残ったのは生わさび1/3ほど。そう言えば伊豆に来て散々食べ尽くしたわさび、最も合う刺身をまだ食べていない。

 千代田屋旅館から河津方面に車で10分、「あずさ気まぐれ売店」は地の物の野菜が安く、近海で揚がった鮮魚も出ている。冷蔵ケースに並んでいたのは伊東港から揚がった鯛などの白身魚。

 「ほうぼうが旨いよ」と店員さん。高級魚の部類に入るらしい、珍しいので購入した。宿に戻り、最後の最後まで削りつくす。

 ガリガリガリガリ

 最初は酒のあてに、そして丼でいただく。
美味しい水と米、そして地魚とわさび。伊豆の旨い物を腹一杯、最後の夕食も五臓六腑にキッチリと効かせた。

 翌朝は冷凍しておいた余りご飯をチンして「山田の鰹節」の出汁茶漬けでフィニッシュ。食品ロスゼロ、冷蔵庫は見事にもぬけの殻となった。
  

 翌朝は8時過ぎから荷物を引き上げる。駐車場まで100m、ヤギ小屋の前を台車で何度も往復する。部屋を片付け電化製品のコンセントを抜き、10時ちょうど、とうとうお別れの瞬間が訪れた。

私  「お世話になりました。さくら(ネコ)は?」
女将 「今寝てる。今日は箪笥の上」

 ネコは一日16時間寝るという。私は別棟での滞在だったが、さくらを見るために仕事が一段落する毎に本館に足を運んだ。だがいつも寝ており、全く会えない日もあった。

 家族経営の小さい宿は、玄関横に受付兼居間がある場合が多い。
ご主人や女将さんがテレビを見ていたり、みかんを食べている生活感丸出しの光景が微笑ましい。さくらはほぼ一日中、この部屋の炬燵の中か箪笥の上で寝ていた。


主人 「箪笥の上が好きなんですよ。暖房の風が当たって暖かいから」
私  「どうやって上るのですか?」
主人 「階段を作ってあげたんです」

 戸を開けて中を覗かせてくれた。DIYで梯子階段のようなものが壁に備え付けられている。箪笥と天井の間でさくらが寝ていた。カメラを向けると鬱陶しそうに目を覚ました。「バイバイ」。


私  「今度はツバメが来るときに」
女将 「3月末から8月まで見れるから」
私  「では来年は、その辺りで来ると思います。どうぞお元気で」

 
 動物を愛するご家族が切盛りする千代田屋旅館は、南伊豆を代表する2軒の高級旅館の狭間にある。旅行に何を求めるかは人それぞれ、奢侈を求めるユーザーにとっては好みが分かれるかもしれない。

 接客も正装ではなく普段着。過度なサービスもなければ煌びやかな大浴場もない。だが源泉は100%かけ流しで、愛想の良いネコとヤギに囲まれて過ごす時間は、決して他では味わえないものだ。

 私には贔屓にしている宿が他にもあるので、どこが一番かと言われれば困ってしまう。だが伊豆で湯治をするならば、また必ず千代田屋を使うことだろう。

 宿を出て、旅の最後に向かったのは下田港。

 本旅で完全に虜になった「山田鰹節店」で200gの節を購入。これは多くの方にお勧めしたい逸品だ。全国配送もしているそうだが、やはり削りたての方が香りが強く、当然だが直で買う方が安い。この日も機械でシュレッダーの様に次々と節が削られていた。


 その後外浦海岸に行き、干物屋「 万宝まんぽう 商店」へ向かう。ご飯と鰹節とわさびがデフォルトの毎日、ここの干物があるだけで豪華版だった。だが到着すると定休日。「出直してこい」ということだろう。


 すぐ近くの砂浜まで歩くと、またしてもコバルトブルーの海には誰もいなかった。護岸に腰を降ろし海を見つめると、下田を去ることが急に現実味を帯びてきた。遠くに一隻の船が東伊豆方面へと横切った。


 おぼろげな記憶だが、二十歳の川端康成が旅した伊豆旅行(※伊豆の踊子の原案)の終節も、ここ下田の海で終わる。東京に船で戻る青年、港まで見送りに来た踊り子。別涙を流すシーンもあったはずだ。

 そして、川端青年は一人の老婆と同舟となる。
娘が流行性感冒(※スペイン風邪)で亡くなり身寄りがなくなったため、田舎に帰るという描写があった。調べると、川端氏がこの旅をしたのは1918年のこと。

 およそ一世紀前、世界中で5千万人(諸説あり)とも言われる死者を出したパンデミック。それでも3年の内には収束へ向かっている。
 100年の時を経て再びウイルスとの戦いを強いられた人類。最初の感染者が出てから、もう3年目を迎えている。

 来年ここを訪れる頃は、きっと泰平な世となっているはずだ。
根拠もなくそんな風に思えたのは、暖かき南伊豆の地でのご家族と動物達との触れ合い、そしてかけ流しの源泉で、心身共に穏やかさを取り戻したからだろう。

 さよなら南伊豆。来年は、松崎の桜が満開のころに。

                        
                           令和4年3月10日
                  『早春、南伊豆逗留記』 おしまい

あずさ気まぐれ売店 魚屋もやっている
ほうぼう刺身 最終日奮発
最後まで食べ尽くす
ユメとモカ バイバイ
頭上 起こしてごめんよ
最後に外浦海岸へ さようなら
※こちらは前回2食付で宿泊した際に撮影
千代田屋の夕食 1泊2食1万1千円
イノシシの陶板焼き 生牡蠣も
食事も高級旅館に負けていないと思う

※千代田屋旅館の自炊棟は3泊以上から利用可能。要電話問い合わせ。宿泊条件あり。一般旅館部はじゃらんから。

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