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東京大学2013年国語第4問 『深さ、記号』前田英樹

 東大現代文に何年かに一度あらわれる、入試本番の時間的制約と精神的緊張のなかで解ききれ、というのがあまりにも酷な要求に思われる難問のひとつである。
 特に、設問(二)は理解することが難しく、設問(四)にいたっては、理解することが難しいうえに、限られた字数で表現することはさらに難しい。

問題文はこちら

(一)「その努力には、いろいろな記憶や一般観念がいつもしきりと援助を送ってくれる」(傍線部ア)とは、どういうことか、説明せよ。
 第1段落は「知覚は、知覚自身を超えて行こうとする一種の努力である」という文で始まるが、3文目以降は「見ること」つまり「視覚」に具体化して話題が展開している。傍線部アも視覚に関する話題において述べられている。
 「実際、私は今自分が見ているこの壺が、ただ網膜に映っているだけのものだとは決して考えない。私からは見えない側にある、この壺の張りも丸みも色さえも、私は見ようとしているし、実際見ている」とある。このような、見えない側にある、張り、丸み、色は、傍線部アの「いろいろな記憶や一般観念」が「援助を送ってくれる」ために知覚できるものである。
 さらには、「見ることが、純粋な網膜上の過程で終わり、後には純粋な知性の解釈が付け加わるだけだと思うのは、行き過ぎた主知主義」とあるので、純粋な知性の解釈(第1段落中では「予測や思考」とも表現されている)が付加される以前に、「網膜上の過程」とそれを補う「記憶や一般観念」によって「見ること」という知覚が成立しているのである。
 以上のことから、「人は何かを見るとき、純粋な知性の解釈を付加する以前に、網膜に映るものだけでなく、それに記憶や一般観念を補って知覚としているということ。」(67字)という解答例ができる。

(二)「家を見上げることは、歩いている私の身体がこの坂道を延びていき、家の表面を包んでその内側を作り出す流体のようになることである」(傍線部イ)とあるが、家を見上げるときに私の意識の中でどのようなことが起きているというのか、説明せよ。
 第3段落の内容、それも丘の上の家の奥行きに関する具体的な事例に関することを要約させる問題である。使われている言葉を丹念に拾い、組み立てなおす必要がある。
 まず、「メルロ=ポンティの知覚の現象学」では、「視えること」は「〈意味〉に向かい続ける身体の志向性と切り離しては決して成り立たない」とする。つまり、視えることは、視えるものの意味に向かい続ける身体の志向性と一体だということである。
 具体的には、「家の正面はわずかに見えてくる側面と見えないあちら側との連続的な係わりによってこそ正面でありうる」のであるから、「丘を見上げながら坂道を行く私の身体の上に、家はそうした全体として否応なくその奥行きを、〈意味〉を顕わしてくる」とある。
 さらに、傍線部イの「流体」とは、「私の身体がこの家に対して、持つ止めどない行動可能性」だとしている。
 ということは、視えるものの意味とは、具体的には、家の全体としての奥行きのことであり、身体の志向性とは、正面に側面と裏側が連続する家の内側に向かい続けることのできる身体の行動可能性のことだということになる。
 以上のことから、「正面だけでなく側面と裏面を持つ家の内側に延びていく自分の身体の行動可能性を認識することで、家全体の奥行きを意味として知覚すること。」(65字)という解答例ができる。

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