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移住者のダイアログインタビュー

単なる自分語りから、地域で語り継ぐ物語へ

先日行われた飲み会の席で、ある人がこんな発言をしていた。
「震災後の南相馬に移住して、復興支援や街づくりの活動をしてきた人の経験や街に対する想いを、インタビューしてきちんと文字にしておく必要があるんじゃないか」
「それはきっと、今後災害が発生した際、被災後の地域再生に活かせるはず」
「江戸時代この地域は、『天明の大飢饉』に見舞われて壊滅的な状態になったが、その後に取り入れた報徳仕法によって、見事に地域を立て直した」「東日本大震災から12年経過した今、震災後の街づくりやコミュニティづくりに力を尽くしてきた人たちの言葉を、『震災から再生する物語』として記すことで、我々は報徳仕法のような『後の世に役立つ文化』を残せるんじゃないか」
酒の力も相まって、どんどん話は盛り上がっていく。

私は横でそれを「ふむふむ」と訊いていたのだが、しばらくすると
「お前インタビューとか得意だろ。お前がインタビューして文字に起こせ」
と、私に作業のお鉢が回ってきた。
「何だよ、アンタがやるんじゃないのかよ」
とも思ったが(笑)、かくいう私も「震災後のこの街の中で、移住者が果たした役割はそこそこ大きいのではないか」「それは記録として残しておく必要があるのではないか」というようなことは考えていた。でも我々移住者が、「私の話を聞いてくれ」と言ったところで、それは単なる自分語りに過ぎないし、それはやりたくなかった。何かそれ以外のきっかけが必要だと、思案していたのである。そんなところへ地元の人が、「それが必要だ」と言ってくれている。

願ったり叶ったりじゃないか。
周りの人も、それって大事なことだねと、なかなか良い反応を示しつつ、その話を聞いている。
これは……私が待っていたチャンスなのではないか。
このタイミングで着手せず、いつ着手するというのだ。
ということで、「南相馬の移住者ダイアログインタビュー」と(勝手に)題し、自分のライフワーク的事業として行っていくことにした。

何のために?

ご存じの通り、南相馬市を含む福島県浜通り地方は、2011年の東日本大震災と、それに伴って発生した福島第一原発の事故によって、過去に例がないほどの惨禍に見舞われた。地震によって建物は倒壊し、沿岸部は津波で壊滅、地域全体に放射性物質が降り注いだ。特に原発事故はこの地域に、大変特殊な被害をもたらす。原発から半径20km の地域は人が住めなくなり、住民は強制避難を強いられた。その外側の地域でも多くの人が自主避難をし、街はゴーストタウンと化してしまう。20km~30km圏内は当初「屋内退避区域」(屋内退避区域とは「避難は自己判断、でも残るなら外に出ないで」というムチャクチャな指示を出された地域)に指定され、街全体の機能が停止してしまう。30kmの外側でももちろん放射性物質は降ったわけで、避難指示も屋内退避も出されなかったものの、この地域の住民ももちろん恐怖と混乱の渦に巻き込まれた。
南相馬市は、北から「鹿島区」「原町区」「小高区」の3つの区域に分かれているのだが、小高区全域と原町区の一部が20km圏内、原町区の大部分と鹿島区の一部が30km圏内、それ以外の鹿島区が30km圏外と、だいたい区ごとに原発事故への対応も変わることになってしまう。つまり小高区は5年間居住出来ない場所となり、鹿島区と原町区は放射能パニックの中で生活を続けなければならない場所となったのだ。
もちろん、東日本大震災による被害は原発事故だけではない。地震や津波によっても被害が出ていた。特に津波は沿岸部の集落に壊滅的な被害をもたらし、沿岸部に建っていた住宅はほぼ全て流された。死者行方不明者の数も634人を数えるほど。震災直後の沿岸部は、まさに地獄絵図。紙くずのようにくしゃくしゃになった車がそこかしこに転がり、海岸にあるはずの消波ブロックも内陸に流され、海岸の道路はアスファルト舗装ごとゴッソリ流されていた。そして……その場所にご遺体が埋まっていることを示す赤い旗が、そこかしこに刺さっている。

当時の南相馬市は、そんな惨状を呈していた。

そんな中にあって、人々は生活している。そして災害復旧ボランティアも訪れている。避難指示が出た20km圏の外側は、街の活動は止まっていなかったのである。
地域の皆さんは、日々の暮らしもやっと送っているような状況の中、外から来たボランティアを受け入れ、手厚くもてなした。そんな人たちに惹かれ、継続的に通ってボランティアを続ける人や、移住した人がいた。その人たちは地域の有志と交わり、地域の復興や生活再建に地域の人と共に取り組むようになる。
そうした「震災直後から関わりを続けている移住者」は、それぞれ南相馬という街に想いを抱えながら、「ヨソモノ」としての視点とスキルを持って、この街に新しいものをもたらすことになる。地域の文化や人に惚れ込み、街に居続けた人たち……この人たちが持つ物語や経験には、語り継ぐべきたくさんの「学び」があると思うのだ。
今流行りの「地方移住による自己実現」「地方での企業」も良いのだが、そういうファッションでは語れない貴重な物語を、残しておく必要があるだろう。

きっとそこには、今後進むであろう「地方の衰退」に対する答えがあるだろう。そのなかに、地方が進む道が見えてくると思うのだ。

街への恩返し

日本全国を見渡してみると、規模や種類の違いこそあれ、毎年何かしらの災害は起こっている。そうした「被災地」では、人口流出やコミュニティの喪失といった問題が起こっている。南相馬の移住者ダイアログインタビューが、そうした地域が活用できる先進事例になることは間違いない。東日本大震災は「原発事故」という特殊な事象を伴った災害だが、それによって発生した事柄は概ね、「人口減少」「少子高齢化」「地方の衰退」といったカテゴリーに分類することが出来る。
つまりこれ、災害の被災地のみに起こることではない。日本全国、いや、日本の国自体に起こることなのだ。そうした事柄に対処すべく、「移住定住推進」や「起業支援」「子育て支援」の名の下、行政は様々な施策を行っている。それはとても良いことだ。どんどん進めてもらえば良い。

では果たして、そうした問題に我々が出来ることは何もないのか?いや、そんなことは無い。我々個人レベルでも、出来ることはたくさんある。
その中に、震災後の南相馬で地域の再生に取り組んだ、移住者達の物語があると、私は考えている。
先にも記したが、インタビューによってそれらをしっかり聞き、文字として残し伝えることで、我々は「現代版『報徳仕法』」が残せるのではないだろうか。

そしてそれを残すことは、私を救ってくれた南相馬の街への恩返しになるのではないか。これは個人的な想いの話になるのだが、私は震災後の活動の中で、脳梗塞を発症して自由の利かない体になってしまった。南相馬という街は、そんな人間を受け入れ生きる場所を提供してくれた。その恩に報いたいという気持ちもある。

大事なことに光を当てたい

震災直後にやって来た移住者は、直後こそもてはやされ、様々な場所で取り上げてもらった。だが最近は、顧みられることすらなくなってしまった。移住のモデルケースになるような「映える移住」……例えば起業支援によってやって来た移住起業家や、「普通の仕事に就いて綺麗に暮らせていますよ」という移住……ばかりが取り上げられ、震災後に泥と汗にまみれながら「土色に染まった人」のことは捨て置かれるようになった。だけれども、これから衰退期に入る日本に重要なのは、こうした「土色に染まった人」の学びなのではないか。
そして実は、土色に染まってこそ出来ることが広がるのだ。
都会偏重で作られてきた世の中のつくりを、見直すことにもつながれば。
そんなことを思っている。

というわけで、私は自分の事業(というかライフワーク)として「南相馬の移住者ダイアログインタビュー」を行うことにした。書籍として発行できるかは分からないが、書籍化して地域の人に配ったり、販売したりといったことを目標に、この事業を進めたい。

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