詩|とうさん
予兆は まったくなかった
その日の夜も 食事前いつものように
若い連中とバカ話をしていた
関西出身 贔屓のベースボール・チームは勿論
日本一を決める試合が もうすぐ始まる
配膳ワゴンから自分の盆を取り 部屋に戻る
それが とうさんの姿を見た最後
とうさん、とある五十代の女性患者は呼んだ
彼女は 年齢がずっと上の白髪のひとは
皆 とうさん、かあさん、と呼ぶ
もちろん年下の◯◯くん、◯◯ちゃんもいる
だから三十名たらずの この病棟は
彼女を中心に縄文時代の集落のようだ
とうさんは 八九歳だ、といつも言っていた
出会ってから四年間 ずっと八九歳のまま
注目の最終戦が始まった。とうさんはベッド前の十六型TVに釘付けになる。手に汗握り、試合が進む。一球ごとにおお〜っ。一球ごとにああ〜っ。年老いた心臓は、大きく繰り返し波打つ。楽しげに。
優勢のまま試合終盤にさしかかった。優勝の瞬間、ベンチから選手達が飛び出してくる。監督が宙に舞う。若い力が躍動する。すぐ次の世代も準備万端だ。それを、その全てを目に焼きつけている。歓喜の輪の中に、もちろんあなたも立っていたのだ。
――数時間後 まだ暗い早朝
病棟全体が眠っている中 静かに各部屋の
見回りをしているナースが気がついた
そして今 一つの時代が終わろうとしていることを
(月刊詩誌『詩人会議』’24年3月号 掲載)
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