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映画『パラサイト 半地下の家族』

 エンドロールが終わってゆっくりと明かりが灯る。穏やかな照明の館内を進む。建物から出ると想像以上の明るい陽射しが降り注いでいる。それに反応して瞬間的に閉じようとする瞳孔が痛い気がした。
 見上げると青い空をバックにゆっくりと雲が移動している。街の喧騒はいつものようにビルの谷間を響き、歩道を行き交う人々を縫うように駅に向かった。
 歩きながら少しずつ映画の中の世界から現実に戻る。そうして架空の話だったのだと我に返ることが出来る。

 しかし私達が現実と思っているものは現実の全てではない。今まで気がついていなかった世界は間違いなく自分たちの近くにもある。
 普通の人々の目線よりも下に生きる人々。光の届かない場所に住む人々。そして、普通とは掛け離れた遥か遥か上の世界に生きる人々。どちらも元は同じ人間であり家族であるはずだ、とそう思いたい。見える世界が違うだけで、人間は人間だと。同じ社会に暮らす人間だと。
 でも、現実はどうやら違うらしい。

 2019年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールの受賞し、アカデミー賞では作品賞、監督賞、脚本賞、国際長編映画賞の最多4部門を受賞したこの作品。
 題名のパラサイトは英語で寄生生物を意味するが、この英語の起源は古代ギリシア語にあって、金持ちが宴会をすると聞くと呼ばれもしないのに現れて場を盛り上げたりしてご馳走にあずかるような人を指したらしい。
 今の時代、何はともあれカネが無ければ生きていけないと思いがちだが、金持ちのお眼鏡にかなえば、ギリシアのパラサイト達のようにカネがなくとも食べていけることもある。
 金持ちなのに優しいのか、金持ちだから優しいのか、この映画の主人公のような貧しい家族でも、相手の望むことを叶えてあげれば優しく手を差し伸べて貰える。寄生する側からみれば宿主の栄養を吸い取っているつもりだろうが、寄生される側からすると痛くも痒くも無い。それどころか、目の前にいて言葉を交わしていても実際には目に入っていない。鼻につく臭いだけが記憶に残るだけ。

 家の建つ場所の高低で貧富の差が表れる。家の広さや身なり、日々の食事の差でも両者の違いが出るが、家族内の親子や兄弟間の距離感でもリッチとプアの違いが表現されている。家族の中で大切にされているものの違いにもそれが表れている。
 貧民が家族ぐるみで富裕層に仕掛ける寄生作戦はまるでスパイ映画のようだ。それでもどこか滑稽で笑えるストーリーや演出が秀逸だが、終幕に残る後味には笑って済まされない毒がある。人間の未熟さを突きつけられた気がして、熟せば食べられる梅や桃も、未熟なうちは毒なのだったと思い起こした。

 社会の経済格差は確かに問題だが、格差以上の問題が社会に根を張っていることを暗に、しかし痛烈に批判している作品でもある。その問題こそが現代社会のパラサイトであると言っているかのようだ。
 皮肉なことに、泥臭くカビ臭い場所であるほど人間臭く心が通い合っている。それは昭和の時代の日本が「古き良き」と形容されるのに似通っていると思えた。

おわり

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