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モノに溢れた世界の虚実と縁側のスイカ

 地球の資源が私たちの使える財の源であり太陽の恵みがエネルギーの源であることは言うまでもない。
 地球の資源とは、地球の重力によって地表や大気に保持されている様々な物質を指す。それらが有限であることは疑いようも無い。

 一方で、現代の金融資産は物的な裏付けを伴わない抽象的な概念として普及している。金融資産の源になった貨幣は、もともとは地球上の資源と等価であったが、現在私たちが目にしているお金の価値はその裏付けとなる別の資産(資源)がある訳ではなく、高度に抽象化されている。

 私たちは日常的に貨幣を使って物やエネルギーの交換を行っている。
 物質の持つ価値は、例えば食物や燃料などのように、人間が生きていくために必要な価値と捉えることが出来る。これをここでは必要価値と呼ぶことにする。
 必要最低限の生活を支えることを考えた場合、必要価値は誰にとっても同じだけの価値を持つものだ。つまり同じ価格になるはずだ。

 経済活動では、必要価値以上の価値を見出して価格を付け加えることをしてきた。その価値は付加価値と呼ばれる。付加価値は人間の頭脳によって加えられたものだから、付加価値創造には何らかのエネルギー投下がある。頭脳はエネルギーを食うのだ。
 頭脳に投下されたエネルギーが付加価値として上乗せされる価値の正体と言っても良いかも知れない。けれど実際のところその付加価値は、確かにそこにあると皆が共同幻想を抱いているだけの架空のものであることの方が多い。

 必要価値に付加価値が上乗せされた価格がモノの値札に書かれていても、私たちはそこに違和感を抱かない。もっと言うと、生産者や販売者が一定の利潤を上乗せしていても当たり前と思っている。それが資本主義である。
 資本主義は、前年よりも今年、今年よりも来年という具合に年々資産が増加することを前提としていて、それを成長と呼んでいる。
 仮に資産の増加が手にした価値の増加を意味するのだとしたら、価値は将来に向けて無限に増えていくことが想定されている。

 現代の資本主義経済では、モノの価値はその物が持っている必要価値ではなく、市場価値によって決められる。市場価値は需要と供給のバランスによって常に変動している。必要価値は不変だから、市場で変動している価値は付加価値ということになる。つまり、人が欲しがるモノの方が付加価値が高く、誰も欲しがらないモノは付加価値が低いということになる。
 さらに、モノによっては必要価値がゼロで付加価値のみで構成されているようなものまである。実は私たちの身の回りにあるものは殆どがその類だ。

 さて、私たちが日常的に目にしている金融価値、資産価値、モノの価値はもともと何を起源としたものだっただろうか。
 それは必要価値であり、すなわち地球の資源と太陽エネルギーだった。
 素粒子の世界であれば別だが、人間の感じられるレベルにおいてエネルギーは物質とは別物だから、私たちが手にする物質は全て地球の資源を起源としているものだ。
 資本主義の世界では、価値は右肩上がりで増え続けるが、根本的なところでその裏付けとなっている地球の資源は無限にあるのだろうか。
 そんなことはない。地球の資源は紛れもなく有限だ。

 ということは、経済活動によって私たちが将来に向けて豊かになっていく、しかも世界中の人々が豊かになっていくというのは幻想ということだ。仮に数字上は資産が増え続けたとしても、それは付加価値の部分であって必要価値ではない。
 つまり私たちが地球上で行っている経済活動は、有限な地球の資源を根拠にした壮大なゼロサムゲームなのだ。
 誰かが得をすればその分だけ誰かが損をするのがゼロサムゲーム。今の世界を見渡すと実際にそうなっていないだろうか。世界で純資産10億ドル以上のビリオネアはこの30年で20倍になっている。もちろんビリオネアたちが持っている資産の殆どは必要価値とは無関係のかすみのようなものだが、そうだとしてもその霞ほどの資産があれば死なずに済む人々が世界中にいるもの事実だろう。どんなカネであれ、カネが無ければ食えないのが資本主義であり、カネが少ない人ほど稼いだカネの殆どを必要価値を得るために費やしている。

 ここで書いたことは何も新しいことではない。ずっと言われ続けてきている。
 重要なのは、こうした不都合な真実を無かったことにしてきた張本人はビリオネアのような金持ちや資本家たちではなく、私たち自身だったということだ。
 食っていくためには金を稼がなければならないからと始めたことが、社会の流れに乗っているうちに運良く収入が安定したりすると、いつの間にかカネで無駄なモノを買ったり、格好をつけてみたり、消費をしたりするようになる。あれもしたいこれもしたい、あれも欲しいこれも欲しい、あれも食べたい、あそこにも行ってみたい。
 人はカネを手にすると不思議と力を持ったかのように感じるようになってしまう。それは裏付けも根拠もない力だ。それを人は自分に付加価値がついたと錯覚するようになる。
 あなたがどんなにカネや資産を手にし、どんなにブランド品で身の回りを固めたところで、あなたの必要価値はそんなものでは変わらない。当たり前だ。そもそも付加価値など幻想に過ぎないのだから。


 長くなったのでここまで読んでくれている人は少ないだろう。
 多くの人にとって、こんな老猫の戯言ざれごとを聞いている暇など無いはずだ。スマホの中にはもっと楽しいことが沢山ある。やらなければならないことも一杯ある。暇があったら何かやることを見つけて暇を潰してやらなきゃならない。スケジュールは隙間無く埋めるものだ。そう思い込んでいる。
 暇を潰すにも何をやるにもカネが掛かる。そのためには稼がなきゃならない。
 そうするうちに、何のために生きているのかと問い始めたりするようになる。
 生きる理由を求め始めたらUターンしてみた方が良い。自分ひとりの人間に必要なモノなど殆ど無いことを思い返すと良い。

 暑いなーとぼーっと空を見上げながら、縁側でスイカを食べて麦茶を飲み、汗を拭ったら扇風機の前で昼寝。網戸の隙間から入り込んだ蚊に足の小指を刺されて目が覚めると陽は傾いていて猫が餌をせびる。よっこらしょと言いながら起き上がって台所に行って餌をくれてやる。
 そんな生活をしていたら、何のために生きているのかなどとは思わないだろう。

 書く手を止めてふと廻りを見ると、雑多なモノで溢れた部屋で独りPCに向かっていることを知り、どの口が偉そうに語っているのだと自らに問うた。

おわり

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