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ソーシャルインクルージョン研究のいま

高齢者が安心して穏やかな気持ちで生活するにはどのようなことが大切でしょうか。
ここでは「東京都健康長寿医療センター研究所 福祉と生活ケア研究チーム」の研究から、高齢者について最新の話題を取り上げます。

今回は、ひとり暮らし高齢者の社会的孤立と妄想について、井藤佳恵研究部長の研究をご紹介します。

社会的孤立が生むシルバークレーマー
騒音などの苦情も社会とのつながりを求める気持ちの表れかも

「音がうるさい」「変なにおいがする」–––。何度も苦情を言い、ときには怒鳴るなどの攻撃的な行動をする人がいます。そういった人の中には、家族やコミュニティとのつながりが少ないひとり暮らしの高齢者もいて、徐々に迫害妄想(被害妄想)を強める場合があるといいます。

65歳以上の高齢者がいる世帯のうち、ひとり暮らし(独居)の割合はおよそ3割です(令和5年高齢社会白書)。ところが都内の自治体で地域保健の専門職が対応に苦心した「高齢困難事例」293人の調査では、独居が半数近くを占めていました(図1)。

出典:令和5年高齢社会白書 / Ito et al. Geriatr Gerontol Int 2022; 22: 997–1004.

ひとり暮らしの高齢者は同居者がいる高齢者に比べて、家族やコミュニティとのつながりが希薄になりがちで、“社会的孤立”のリスクが高いといわれています。そこで井藤研究部長は、都内のひとり暮らしの高齢女性の「語り」と医療記録をもとに、社会的孤立が迫害妄想の形成にどのように関係するかを調べました。

1人は80代女性で、民間企業に定年まで勤務し、独身。80歳のときにサービス付き高齢者住宅に入居した方です。入居後、「他の部屋の音が気になる」と言っていました。やがて、「誰かが夜中に大きな音を出す」と騒音を訴えるようになりました。毎日管理人に苦情を言っていましたが、そのうち、管理会社や地域の警察署、役所にも訴えるようになりました。その後、地域包括支援センターの介入が始まり、自治体の精神保健相談事業を利用して、妄想性障害と診断されます。数年にわたる「騒音被害」は幻聴によるものと考えられ、精神疾患に気づかれず、「悪質なクレーマー」として扱われる中で、社会的孤立を深めていった可能性があるようです。

この方の「語り」からは、自立した自己像への強いこだわりと、自立を喪失することへの不安が感じ取れました。また、サービス付き高齢者住宅を選択したことを後悔しているようで、入居のために貯金を使い果たしてしまったことを悔やみ、経済的にも不安がつのってきました。さらには、管理人が他の入居者に怒鳴っている場面に遭遇して、自分も住まいを失う不安を増幅させた様子が浮かび上がってきたといいます。しかしその後の地域包括支援センターの関わりや介護保険サービスの利用で、この方の迫害妄想はなくなっていきました。

もう1人も80代女性で、結婚しましたが夫も子供も早くに亡くなりました。78歳まで仕事を続け、その後、公営住宅に転居。コミュニティースペースの医療相談では、騒音や異臭を訴えていました。親しい友人や妹との死別を経験して、孤独死への不安も話していたそうです。また公営住宅は高齢者が多いと聞いたので、高齢者を見守る体制が整っていると思ったが、実際には何もなくてがっかりしたとも話していました。先のことが不安でも一見元気な自分には使えるサービスもないと語り、自立した高齢者が支援機関とつながることの難しさを話していたことがとりわけ印象的だったといいます。

社会的孤立が妄想を招く前に精神的な支えが大切

このようなケースから、社会的孤立が深まる中で妄想が形成されていく過程には3つのステップがあるのではないかと井藤研究部長は言います。ステップ1は、加齢に伴って誰もが感じることのある不安(了解可能な不安)に対する反応として幻覚(幻視、幻聴、幻臭、幻味)が現れます。そのつらさを聞いてもらいたい、共感してほしいとご本人は思っています(図2)。

ところが老年期にありがちな不安は受け流され、共感してほしいという気持ちは満たされず、ステップ2に進むと、その幻覚が他者の悪意によってもたらされたという意味づけがなされ、妄想の形をとりはじめます。嫌な音や臭いが、誰かの悪意によって意図的に引き起こされてるのだとしたら、それは恐ろしいことです。ですから助けを求めます。しかしこの人たちの助けの求め方は不器用なことが多くて、たとえば、執拗に苦情を申し立てているように相手には感じられてしまいます。助けを求めているとは伝わりにくく、迷惑に感じられてしまうのです。相手にされないことに苛立ち、態度が次第に攻撃的になります。

助けを求めてもそれが満たされず、ステップ3に進むと、迫害妄想(被害妄想)が形成されます。この段階では、もう他の人との相互的な関係を築くことは諦めて、自分に降りかかる脅威から自分を守るために行動を起こさなければならないと考えます。そしてその行動に周囲の人が身の危険を感じれば、コミュニティーからの排除が起こるのです。

どちらのケースも高齢者に対する支援が得られることを期待して転居していますが、実際にはその思いが満たされず、社会的孤立を深めていきました。また自立した生活への誇りが、助けを求めることをためらわせ、それが知らず知らずのうちに、社会的孤立を招き、妄想の形成に影響した可能性もあるようです。

一方で、騒音や臭いに対する執拗な苦情は、社会的なつながりを切望していたことの表れと考えることもできると井藤佳恵研究部長は述べています。支援が必要な高齢者をすくいあげるためには、利用可能なサービスがあることだけではなく、じっと話に耳を傾けるといった精神的な支えが大切なのでしょう。

##引用論文
Older people living in the community with delusion
Kae Ito. Geriatr Gerontol Int. 2023 Oct 17. doi: 10.1111/ggi.14699.

文/八倉巻 尚子(医療ライター)

##著者からのひとこと(井藤佳恵研究部長)
妄想をもつ人に接したときに、その人を自分とはまったく異質の人種として最初から分かり合う可能性を放棄し、自分のいる世界から遠ざけようとする本能のようなものを人はもっているのではないかと感じています。ですが高齢期の妄想は、ふとしたことで誰もが抱きうるものであるようです。妄想がすっかり形成される前のひとときに表現される寂しさや不安を感じ取れる感受性をもつことも必要なのではないか。この論文はそういう思いから書いたものです。

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