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防ごう。おわらせよう。の翌朝それ?ーー成長小説・秋の月、風の夜(79)

四郎の口から、ことばが出てこない。
高橋はかさねて、問いかけてみる。

「……考えてること、かんじてること、話せるか」

「俺、お母さんも奈々瀬もお前も、無事ですませやへんみたいで、おそがい」
おそがいとは、岐阜弁で「おそろしい」という意味だ。
「そうか」
高橋は、「灯りつけて、ペーパー取ってくれよ」と四郎に頼んだ。

四郎は、部屋の電灯をつけた。まぶしい。高橋は思わず目を閉じた。

四郎が、高橋のいつものプロジェクトペーパーを持ってくる。
高橋は脱力していて、字を書ける気がしない。
「四郎、ペンが持てない。僕のかわりに略図をかいて整理してくれ」

四郎は新しいページを出し、高橋の万年筆を借りた。

「お母さん、奈々ちゃん、僕をプロットしてみて。男女と年齢とエサかどうか、三軸でかいてみて。それからどうしてしまいそうか、しゃべってみて」

四郎は渡された高橋の万年筆を、うろうろと動かして、まずは象限をXYZ線で切った。たてよこななめの線が走った。
性別、年齢、エサかどうか。線の横に属性の略語を書いた。

三人を点で置いた。

母親は、女性、年齢四十代でエサ圏外。
奈々瀬は、女性、年齢十八歳未満でエサ圏外。
高橋は男性、年齢二十代、ご先祖さまにとってはどうでもよくて、「奥の人」にとっては親友で支配するもてあそびもの。

いつも高橋の描く図をみているばかりの四郎だったが、今夜は自分で、まがりなりにも描くことができている。

母親と奈々瀬と高橋をどうしてしまいそうか、四郎はとにかくしゃべった。

けれども。
自分が描いた図をみながらだと、得体の知れなさや恐怖や混乱は、さほど迫ってこない。

「見える化」されていなかったものを単純に可視化した。つまり秘密が秘密でなくなっているので、もはや異様な力を持たないのか。

四郎はだれにも危害を加えようがない現在の稀有な状況を、やっと整理できたらしい。
「奈々瀬が十八歳になるまでは、全員、安全や……お母さんも高橋も、俺、傷のしようがないんや……」

「そうだ、十八歳になった奈々ちゃんだけ気をつけてあげればいいんだ。お前がおびえてるのは、整理されない根拠のない感覚に持っていかれることだよ。ふりかえりをしっかりしよう。予防をしっかりしよう。おわらせよう」

「……うん……」四郎はぽつりとつぶやいて、万年筆のキャップを閉めた。

たがが外れるのも、それもまた、人間らしい一面なのだろう。
「恐怖心や不全感がつのって、流されるだけかもしれない。気をしっかり持っていこう。少しでも眠っとこうよ」

高橋の声かけに、四郎はあいまいにうなずいた。


――奈々瀬、ごめん、今電話しても迷惑やない? 昨日の晩、悪かった。

朝の七時二十分。登校準備のため自室に戻った奈々瀬に、おなじく通勤準備中の四郎から電話があった。
「大丈夫。あのあとそっちは大丈夫だった?」
――収まった。奥の人、だいぶおとなしなった。ありがとえか。

奈々瀬の唇の端が、きゅっと上にあがった。
「あのね、私四郎の電話、すごく嬉しいの。いつも思うんだけど、私が迷惑かもとか、私にもう連絡してこないでって言われるかもとか、それ単なる思い込みで、四郎がずっとそう思ってると私さびしいの。それに私、四郎が構えちゃうと、おちつかない。だからその思い込み、取りはずしちゃわない?」

――……やって、こんなに頻繁に電話かけとんの、実際迷惑やし……
「四郎は、電話キライだから、もし私から頻繁に電話がかかると、迷惑に感じる?」
――ええっ……いや……もし奈々瀬からやったら……ええと、あ、うわあ……家におったら、部屋から出て外で話するけど、よりこが何回電話があったかチェックしとるかもしれんで、すっごい俺こそこそしてまう。

「じゃ、家の人たちに様子を知られたときの、めんどくささ?」
――そうみたいや。ごめん、ごちゃまぜにして。
「わかってよかった。大丈夫? 私は、四郎からの電話、すごくうれしい」
――ありがと。

四郎は、奈々瀬のすずやかな声を、しみじみ嬉しいと思った。そして、本題に入らねば。

――ほんでなあ、奈々瀬。俺よう考えたんやけど、俺が右往左往して奈々瀬困らすばっかやでさ、高橋と奈々瀬がつきあってくれたほうが、俺やっぱり……

「私、仮にそうするにしても、やっぱりファーストキスは四郎にあげたいな」そう言ったとたん、奈々瀬から、四郎に対する落ち着きがふっとんだ。奈々瀬は自分自身に愕然とした。

自分の思っていることを相手に言わなかったから、あたかも落ち着いているように感じただけだったのだ。受け身でキスを待っていようとしていたから、あたかも落ち着いているように感じていたのだ。なにも決めずになにも伝えなかったから、落ち着いていられたのだ。

四郎にファーストキスをあげたい、なんて大胆なことを言ってみてはじめて、どくっどくっと激しく自分の心臓が高鳴るのを奈々瀬は聞いた。ならばもうひとつ、もうひとつだけ、思い切って言ってしまおう。はね子とかおはねちゃんとか言われるのは、このクセだということはうすうすわかっている。母親そっくりの嫌なクセ、平常心を失ったらさらに突進する嫌なクセ。奈々瀬は息を吸い、伝えた。「四郎が……四郎がはじめての人だといい」

――そっ、うわっ、……ええっ??
四郎が電話の向こうで取り乱している。奈々瀬は(ああ言っちゃったーー!)と後悔した。

「女の子は男の子を追っかけないの。思わせぶりにしてから待って、追っかけてくれるようにするのよ」
と誰かが教えてくれたのに。真逆をやった。終わった……!

――俺きっと、三十五歳すぎた奈々瀬となら一緒におれる……あのう、ファーストキスはええとあのう、えーと、唇と唇、つけるやつやん?
すでにしくじったあれだ。四郎は自分が言っていることが明らかにおかしい、と自覚した。変な汗が止まらない。

「……そうですね」返事をしてみて、自分が非常に冷たい声を出していることに、奈々瀬はさらに動揺した。

――はじめての人というとそれは、はじめての人というと。
「……あんまり、女の子にいろいろ言わせないでください」声がかたい。イラついている。自分でもどうしようと思いながら、奈々瀬はもう、優しい声を出せなくなっていた。四郎を見限ったわけではない。ただ……疲れた。

「ごめんね四郎、今日私、四郎に優しくない。思い切ったこと言い過ぎたかも。忘れて。恥ずかしいからなのか、やっちゃった感なのか、わかんない。
ぎくしゃくするの疲れた。四郎のことは好き。思ってることも伝えたとおり。
四郎が言う通り、私、高橋さんとつきあうほうが、お互い自己嫌悪しなくてすむのかもしれない。ごめんほんとに、よくわかんない」

――ごめんえか、奈々瀬、困らしてばっかおって、ごめん。あの……さようなら。
たとえば高橋なら「学校、気をつけて行ってきて」などの言い方で伝えただろうに、四郎は完全に取り乱していた。こともあろうに、「さようなら」という言葉を使った。

電話が切れた。奈々瀬は泣いた。ベッドにつっぷして、いつまでもぐずぐず、しくしく、泣いた。
電話を切った四郎は、なぜだかホッとしていた。不合格や失格の烙印を押されて、楽になる……そんな感覚に似ていた。


四郎と奈々瀬の間に、そんなことが起きたとはつゆ知らず……
「四郎、そろそろ行こうか」と、高橋が書類カバンを持って、声をかけに来た。



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マガジン:小説「秋の月、風の夜」
もくろみ・目次・登場人物紹介


「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!