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「才能」とは何か


  「 才能 」


この言葉は私の嫌いな言葉の一つだ。

それは世間一般的に言う「才能」が自分にはこれといって持っていないからなのかもしれない。私は昔から両親に才能がないと言われて育ってきた。
何をやっても中途半端にしか出来ないタイプで、良いように言えば器用貧乏な人間だ。だから私は「才能」があると褒められる人が疎ましくてたまらなかった。

・中学校時代の部活動

 思春期に突入した中学生時代は特に劣等感を色濃く感じた。私は中学のときバレーボール部に所属しており、市大会ベスト4常連の強豪校だった。顧問の先生は部活動では The 昭和の熱血教師(パイプ椅子、スリッパはよく飛んできました(笑))という感じで、非常に厳しかった。私の学年は入部したのが8人で、しかも低身長で全員初心者だった上に1個上の先輩は一人しかいなかった。(年々指導の厳しさから入部する生徒が減ってきていた。)もちろんそこから三年生が引退してからは皆様お察しの通り、市大会も1,2回戦敗退の弱小校になってしまった。

周りの中学のバレー部からは、

「あそこの中学はもう終わったな。」「先輩たちに比べると才能ないよな」

と言われ、私たちも自信も全くつかず、どうしても先輩たちと比べてしまい、身長もなければ才能も無いと半ば諦めかけていた。自分から目を背け、逃げようとしていた。毎日先生には怒鳴られ、先輩たちがしていた練習とはうって代わり毎日基礎練習ばかりで辞める生徒も数人いた…。

・恩師からの言葉


 そんな中、一つ上の先輩の引退試合でその劣等感は消えた。市大会で6位まで上り詰めたのだ。先輩たちには及ばないが、まぐれだとしてもとても嬉しかった。そのとき試合後のミーティングで先生と握手を交わしたあの温もりは今でも忘れられず、鮮明に覚えている。

先生は言っていた、

「お前たちはまだ先輩たちの様な才能はない。本当に下手くそで足下にも及ばない。そもそも才能なんてものは本来最初からあるものではない。みんな待ち合わせているのは ”センス” 。人によって成長速度が違い、優劣があるのは人によってそれぞれセンスがある部分が違うだけだ。だからそのセンスを活かすために、スポーツには専門的なポジションがある。

 才能は誰でも開花させることができる。ただセンスの差がある分、必要な努力の量に違いがあるのは間違いない。自分のセンスある部分だけで戦うことも大切だが、やはりそれだけでは上には登れないときがくる。

 今は自分の武器で戦うことが大会での良い結果への近道だが、これから先高校、あるいは大人になったときには才能を言い訳にして簡単に諦めるな。上を目指して常に小さな努力でもいいから積み重ねろ。それは諦めることよりも、遙かに難しく苦しいことではあるけれど。

そしてもし生まれつき才能があるとしたらそれは 、

”努力する才能”

かもしれない。これを持ち合わせた者は本当に幸運だ。

いきなり良い結果にはならないことが多いだろう。目標に届きはしなかった努力は一見時間の無駄でも、決して無駄にはならない。頑張ろう。」

・最後に…

 この先生の話ははその後の私の人生に大きな影響を与えました。私はこの先生と出会ってから色んな事に挑戦できるようにもなり、人生が豊かになったと思う。今では「才能」を疎むこともなく、負けじと自分も挑戦することができている。もちろん努力をしても中々実らず、やむを得ず諦めることもあった。だが、やはりその努力は無駄ではなく自分のセンスはどの方向に傾いているのか、どういう性格なのか等、自己理解につながるだけでなく、色んな世界を知ることで少しずつ人間的にも成長してきていると感じる。

 まとめると、「才能」とは努力の結晶を指し、最初から持ち合わせているものではない。何事も根幹にあるのは努力である。私もこれからも努力を怠らず、色んな事に挑戦していきたい。

生きていく中での私のこだわりや価値観をあまり人と共有する機会が少なかったこともあり、今回noteに初めて書き留めてみた。

この記事が今何かで挫折しそうな人たちの力に少しでもなればと願う。

noteを初めて書いたがやはり文章を書くことは難しい、、、、

#エッセイ   #ブログ   #生き方   #教育   #note書き始め   #価値観 #才能 #努力


(完)




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